Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

誤読をおそれず、2019年版『唐版 風の又三郎』を考えてみた

 『唐版 風の又三郎』を考えるとき、必要と感じたのが、以下の年表である。
1937(昭和12)年12月 9日 日本海軍の戦闘機操縦士・樫村寛一の片翼帰還
1940(昭和15)年 2月11日 東京都台東区下谷万年町唐十郎誕生
1941(昭和16)年12月 8日 太平洋戦争開戦
1945(昭和20)年 8月15日 太平洋戦争終結
1970(昭和45)年11月25日 三島事件
              作家・三島由紀夫自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけ、割腹自殺
              「<日本を守る>ための<健軍の本義>に立ち返れ」(憲法改正)の決起
1973(昭和48)年 6月23日 自衛隊機乗り逃げ事件
               21時頃、栃木県の陸上自衛隊北宇都宮駐屯地からLM-1型連絡機が離陸
               飲酒した整備員3陸曹(当時20歳)が行方不明、機も消息を断つ
1974(昭和49)年 4〜7月 『唐版 風の又三郎』上演

 

 誤読を恐れずに言うなら、『唐版 風の又三郎』は3つの世代の物語である。
 ひとつは、戦争を体験している世代=教授・珍腐・淫腐・乱腐
 ひとつは、戦争は知らないが、自衛隊の存在を身近に感じている世代=エリカ・夜の男・死の青年(高田三郎
 ひとつは、戦争を知らず、自衛隊の存在も忘れがちな世代=織部

 彼らを分断するものは、飛行機の音である。教授たち「帝国探偵社(テイタン)」に蠢く者たちにとってそれは日中戦争から太平洋戦争にかけての「片翼帰還の英雄」(過去の栄光)の音であり、エリカにとっては恋しい自衛隊員が自分の元へ飛んでくる音であり、織部にとってはラジコン飛行機の音に聞こえる。
 この「聞こえる音は同じなのに、人によって想起するものが違う」という現象が、この演劇の入口が「聞くこと=耳」であり、テーマが「戦中世代、戦後世代、平和ボケ世代の世代間断絶」であることを示唆する。

 

 

 教授は、太平洋戦争中はマレーで戦い、戦後は自衛隊に組み込まれ、宇都宮少年自衛隊航空分校の校長にまでなったが、高田三郎の「乗り逃げ」事件の責任を取らされ、“自衛隊の裏側”であるテイタンに左遷されてきた。テイタンには「片翼帰還の英雄」のニュース映画が常時流され、三腐人は菊の御紋の羽織をまとう。日本国憲法により“軍”ではなくなった自衛隊の裏側には、日本の国民が捨て去り、見返ることさえしない“旧日本軍”を、忘れられない者たちが存在する。彼らにとって、飛行機の音は英雄の音であり、空襲の音であり、今の日本は戦争で死んでいった数多の兵士たちの血肉(ソーセージ)でできているように見えるのだ。


 テイタンに蠢くのは、死相を浮かべた自衛隊員たち。それは、三島由紀夫が市ヶ谷自衛隊のバルコニーで「今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。」「どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。」と叫んだ言葉そのもの。もはや武士の精神を失い、サラリーマンと化した自衛隊に去勢され、葬られ、腐りゆく、“旧日本軍”のように思われる。

 

 高田三郎がテイタンで“裁判”にかけられたのは、飛行機を乗り逃げした罪のため。教授にとって彼は、自分を左遷に追いやった罪人のみならず、国を守るためにある聖なる武器(飛行機)を恋人のために乗り逃げした、旧日本軍では考えられない不届き者でもあったからだ、と考える。
 教授は不届き者からシャイロックよろしく「心臓近くの肉1ポンド」を切り取るが、エリカはそれを食べてしまう。肉を食べられた高田は、血を回収しても生き返ることはない。織部を伴ったエリカを責め、死の少年のものとなる(冥界に留まる)。


 『唐版 風の又三郎』を“神話”的に思わせる要素は、このエリカと高田の物語にある。
 エリカは、夢枕に立った高田に「俺の体をひろってくれ」と言われ、宇都宮銀座から東京代々木までやってきた。それは、エジプト神話の、14の肉片にされ、国中にバラまかれたオシリスの身体を集めて回る、彼の妻イシスを連想させる。イシスは最後の一片(男根)を見つけることができず、そのためオシリスは冥界に留まることになる。
 エリカの「死体ひろい」のエピソードは、その名に冠されたエウリディケとオルフェウスの物語以上に神話を思わせる。高田の死体にたどり着いたものの、彼の肉を奪わせまい(彼を自分だけのものにしよう)と食べたことにより、エリカは永遠に彼を失うのだ。

 それはまた、「国のために命をかける」戦争が終わり、「恋のために命をかけられる」時代の到来と共に、戦後の混乱期には10万人以上もいたとされる街娼の存在も浮かび上がらせる。
 飛行士ではなく整備員だったにもかかわらず、「この飛行訓練が終わったら、俺は東京に出て一人前のパイロットになり、お茶の水の陸橋をくぐりぬけて見せようか」と大言壮語する高田の意気がりを、「たんとおやりなさい」と話を合わせて無責任に煽るエリカ。しかし、実際に高田は飛行機に乗って彼女に旋回を見せ、手を振って夜の空に消えた。不可能をやってみせたのだ。

 このとき、高田はエリカの“特別な人”となり、死んだと聞かされてもなお、御茶ノ水の陸橋で運河をくぐる高田の飛行機を待ち望むようになる。


 一方、エリカには自分を“ひとりの男に愛される女”から“夜の女”に引きずり下ろす「夜の男」がいた。彼は教授の友人であり、戦争を体験しながらも、戦後の混乱期を、そして高度経済成長時代を、女を食いものにしながら金と暴力で世間をのし歩く、ヤクザのような存在だ。
 『唐版 風の又三郎』の初演は、1974年。終戦から30年を迎えようとするこの頃には、数多のエリカと数多の夜の男が、戦中には空襲で折り重なり、積み上がった死体で埋まった界隈を、セックスと堕胎と暴力の巷に染めたのだ。
 彼らにとって、自衛隊員は軍人と意識する存在ではなく、テイタンさえ、高田の死体がある施設でしかない。同じ時間上に戦争に駆り出され、特攻を命じられ、敵地で自決させられ、見捨てられて餓死の憂き目に遭い、空襲から逃げ惑い、目の前で親や兄弟を亡くし、飢えや病気に苦しんだ人々が生きていることも意識になく、ただ目的もなく、日々をおのれの卑小な欲望の赴くまま獣のように生きている。「七つの大罪」に塗れながら、聖なる場所(ニコライ堂)で尼僧のふりさえできるエリカの強かさよ。
 三腐人のエリカへの暴力は、「命をかけたのに見向きもされない」現実への憤怒であり、復讐であるように感じる。

 

 唐十郎は、開戦当時1歳で、1944年には母と弟と共に母の故郷の福島県富岡町疎開している。そこで弟を肺炎と栄養失調で亡くした。翌年、敗戦後の8月に東京に戻るが、5歳の彼の目に映ったのは、東京大空襲で焼け野原になった浅草一帯と闇市で賑わう上野界隈だった。

 

 さて、織部である。彼が聞く「飛行機の音」は耳鳴りと思われる。そして、それをラジコン飛行機の音だと空を見上げる。なんとも平和である。また、女人禁制のテイタンに潜入するため男装したエリカを「風の又三郎」だと思いこむ。
 彼は戦争を知らない。戦死者の血肉でできたソーセージを「くさい! 気持ち悪い!」と拒絶する。
 彼は恋を知らない。高田の心臓を食べたエリカの気持ちも、自分の髪と織部の血を川に流したい彼女の気持ちもわからない。しかし、彼女の胸の血を飲むという行動に迷いはなかった。この本能的な行為によって、織部は又三郎ではない女性を「エリカ」と認識し、彼女と共にあろうと思ったのではなかろうか。彼女の胸から流れる血を見て、初めて織部は「死」(亡くすこと)の恐怖を知ったのだ。
 こんな織部は、何者なのだろうか。

 

 宮沢賢治の『風の又三郎』に登場する「又三郎」と同じ名を持つ高田三郎は、又三郎ではありえない。彼は『唐版 風の又三郎』の世界において、異質ではないからだ。同じ理由で又三郎はエリカでもない。

 では、又三郎とは? 私は、織部こそが又三郎だと考える。


 何度も書くが、『唐版 風の又三郎』の初演は1974年。経済学者で評論家の栗本慎一郎が「新人類」という言葉を作り出したのが、1979年頃である。「新人類」とは、「インベーダーゲームや大学入試における共通一次試験などに象徴される、それ以前の時代とは違う画一化社会に迎合し、無気力的傾向のある若者をアイロニーを込めて命名したもの」(Wikipedia)である。
 唐十郎は、状況劇場を率い、テント興業(紅テント)で先鋭的な演劇を自身で書き、上演するうち、いち早く若者たちの変化を感じ取ったのではないだろうか。戦争を知らず、自衛隊に三島が叫んだほどの情熱を知らず、闇市や街娼といった人間の陰も知らない。血を流すことはもとより、他人が血を流すところ、まるで物のように殺されていく死を見たこともない。言わば、無知で、無垢で、「幸せは誰かがきっと運んでくれると信じている」若者たち。
 北風に運ばれ、風向計ひとつを持って『唐版 風の又三郎』に降り立った織部は、初演当時はおそらく唐十郎が幻視した、間もなく来る「平和ボケ世代」の若者なのではないか。時間を遡行して1974年の東京に来てしまった彼は、戦中・戦後の世代のダイナミズムに飲み込まれ、あっけなく殺されてしまう。

 太平洋戦争の敗戦で日本人の精神的礎を壊され、壊されたことさえ知らず、そして日本人が外国に対してどんな負債を負ったのかさえ知らない若者たちが台頭してくる時代。彼らは、過去の事実を聞く“耳”を奪われ、日本が置かれている現状の根底を見る“目”を塞がれ、日本の過去に殺されていくのだ。

 

 だが、救いはある。
 織部が「僕は読者です」と答えるように、彼らは当事者ではなく、傍観者ですらなく、日本の物語を体験し得ない読者なのだ。しかし、その耳の奥、蝸牛の膜迷路の中に戦中・戦後の日本の記憶は潜んでいる。祖父母や親戚、戦争体験者から聞く話、テレビから流れるニュース、図書館で見つけた本、学校での学習……。この日本の太平洋戦争前中後の「地獄巡り」を終えて、すべてを知り、笑って「僕は(すべての知識を得た)読者です!」と言えたとき、スリッパが飛行機に変わるように、戦後日本という閉鎖空間から飛び立てるかもしれない。
 戦闘機乗りだった教授の心の拠り所が片翼の飛行機の帰還だったように、エリカが運河をくぐる飛行機という愛の証を手に入れたように、織部が閉じ込められた空間から飛び立つ飛行機を手に入れたように。


 そして、2019年。1974年の初演時には近未来タイムスリップものだった『唐版 風の又三郎』は、現代に着地した。織部は未来人ではなく、昭和の次に来た時代・平成を生きる若者として劇空間を闊歩する。無知と無垢というガラスのマントをまとって、耳の中の螺旋に潜む日本の過去を旅していく。窪田正孝という演者の肉体を得て、柚希礼音演じるエリカと共に。


 この「時のオルフェ 炎の道行き」(というタイトルのマンガがあったのだ。もちろん内容はまったく違うタイムスリップもの。湯田伸子作)とでも名付けたいようなこの旅を、主役のふたりをはじめ、このキャストの方々とご一緒できてよかった。言葉が渦を巻いているように感じる、ファンタスティックでスペクタクルな舞台は、これまでの人生にないものだった。
 2019年版『唐版 風の又三郎』に関わられたすべての人に、心からの感謝を!

 

※ 後日、若干、改稿する可能性があります。

<参考文献>

唐十郎論 逆襲する言葉と肉体』樋口良澄(未知谷)

唐十郎の劇世界』扇田昭彦(右文書院)

 

『唐版 風の又三郎』公式サイト

https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/19_kazemata/

 


窪田正孝&柚希礼音W主演『唐版 風の又三郎』公開ゲネプロ