Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

場所にまつわる「気」の話

 毎朝、ブログペットがメールしてくれる「今日の占い」はつい見てしまいますし、おみくじを引くのも結構好きです。「パワーストーン」の話など読んでいるとわくわくしますし、過去にはタロットカードのおもしろさにハマったこともあります。
 でも、「今日のラッキーアイテム」だからと黄色のマフラーやシルバーアクセサリーを身につけたり、パワーストーンを集めたりはしません。……タロットカードは持ってますけど、20年以上お蔵入りしたままです(笑)。
 性格判断などは自分自身を分析するうえで参考になりますし、占いやパワーストーンなどが成立してきた過程も知識としてはおもしろい。でも信じてはいないというのが、私のスタンスなんだと思います。


 そんな私が、ただひとつ、体感したがために信じざるをえなくなったことがあります。それは「場がもつ気」です。
 パリで仕事をしていたときのこと。春から夏にかけての滞在だったにも関わらず、一日中、風通しの悪い部屋のなかでどんどん溜まっていく淀んだ空気のなかを歩いているような、密度の濃いなにかに頭を押さえつけれているような気分が続いたんですね。でも、そのころは15区のレジデンスホテルや16区のアパルトマンなど、パリ市中に滞在していたので、そのモヤモヤしたものの正体がわかりませんでした。
 わかったのは、パリ郊外のサンジェルマン・アン・レイに居を移してから。RERで通勤していたのですが、パリの地下を走っているRERが市中を離れて地上に出たとたん、まるでなにかを吹っ切ったように頭も体も軽くなるのです。
 そこで思い出したのが、パリ在住の日本人医師が書かれていた記事。ヨーロッパ周遊旅行などでパリに立ち寄った際に「おかしくなる」日本人旅行者が多いという話を、ヨーロッパ諸国の大都市で日本人旅行者が病気または事故で医師にかかった件数のデータなどを挙げながら、体験談として説明されていました。
 ヨーロッパ周遊旅行で、ロンドン、ローマ、ジュネーヴ、ウィーン、ベルリン、アムステルダムブリュッセルといった主要都市のどこかは飛ばしても、パリに寄らないツアーはたぶん皆無でしょう。パリに来る日本人旅行者は他都市より多いでしょうし、必然的に病気に罹ったり、事故に遭ったりする人数も増えるとは思うのですが、棒グラフはぶっちぎり断突でパリが高くなっていました。
 警察やホテルから「急患が出た。日本人らしい」という往診要請でその医師が出かけていくと、大抵は急性アルコール中毒。旅程の最後をパリに設定しているツアーも多いので、ついハメを外しちゃうんでしょうと、このあたりはわからなくもないのですが。パリ独特の現象として多いのが、徘徊なのだそうです。迷子ともちょっと違っていて、自分がどこへ行くつもりなのか、なにをしたいのかもわからず、パリの町をさ迷い、石畳の道でころんでケガをしたり、道端でうずくまって動けなくなっていたり……。

 実際、パリではアルコールの回りが異様に早いというのは、私自身が感じたことでした。また、日本ではしっかり者で几帳面、他人に油断することのない友人が、パリに来たとたん、財布をすられたこともありました。


 そういう意識があったからでしょうか。当時、パリの副都心として建設中だったラ・デファンスからパリ市街を見たとき、その上空にドームのようなものがあって、市街全域を覆っているような気がしました。パリから立ち上がる気がつくる、バリアのようなものが……。
 その印象が強烈だったもので、以来、私のなかではパリとフランスは別物なのです。ちょうどイタリアのなかにバチカン市国があるようなもので、フランスのなかにパリ市国があり、通念的なフランスの国民性ではパリ市国の国民性は語れないと思っています。


 パリに「気」があるなら、当然、他の都市にもあるでしょう。たとえば、パリがそれぞれの形もわからない有相無相が常に燃えたぎっている溶鉱炉なら、ニューヨークは新しい石炭がどんどん放り込まれて炎を上げている蒸気機関車の燃焼室。ロンドンは薪が燃え尽きていくさまがまざまざと見える暖炉、東京は目に見えない燃料で炎だけがその存在を教えるガスの火……。
 溶鉱炉が性に合う人がいれば、暖炉に安らぎを感じる人もいる。その土地の「気」に合う人が集まり、さらにその濃度を上げているんだなあ、と。


 人間の「気」の集合体は、その土地の「気」の性質を決めてしまうくらいすごい。さて、人間に「気」というものの存在を認めるなら、その人間を含有する自然にも「気」があってしかるべきでしょう。
 実際、自然の多いところへ行くと、都会にいるのとは違った気分になりますよね。青木ヶ原の樹海、春日山の原生林、鞍馬山の木の根道、戸隠の参道など樹木の多いところ。流れる水を擁する貴船や昇仙峡、富士山をはじめとする山々。そこには、永らく人の手が入らなかったおかげで溜まった、自然本来の「気」が濃くあるのではないかと思います。
 青木ヶ原の樹海のなかを遊歩道ながら歩いていると、間違いなく、自分の動作が満ちた気を乱し、吐く息が空気をかき混ぜ、立てる音が静寂を破るのを感じます。
 それでも、私のような、体力もなく、運動もしていない人間が入れる環境であるというところで、ここまでなら自然も許してくれるのではないかと思い込んでいます。

 でも、人が行くのに過酷なところ、永らく「聖域」「禁域」として人の手が入ることが許されなかったところには、私は踏み込むべきではないと考えています。「そこまで富士山が好きなのに、なぜ?」とよく聞かれるのですが、私は富士山の山頂に登りたいとも、また屋久島の縄文杉を見に行きたいとも、白神山地に行ってみたいとも思いません。「許されていない」と感じるからです。


 このあたりは人それぞれですから、私の考えを他人様に押し付けようとは思いませんが、「屋久杉を見に行こうツアー」を断った理由も、「富士山登山はイヤ」な理由も、まあ、そういうことなんですよ。決して、しんどくて、めんどくさそうという理由(だけ)ではありません……たぶん(笑)。