Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

連続テレビ小説『エール』第3週

連続テレビ小説『エール』イメージ

 

<『エール』第11話 4月14日>

大正15年ということは、裕一は17歳ですね。現在なら高校2年生で、バケツを持って立たされているあたり、時代を感じます。

 

裕一の吃音にもなまりにも、子ども時代を演じた石田星空の面影が残っていていいですね。星空君は(もちろん演出関係のスタッフも)窪田正孝を意識して裕一の子ども時代を演じていたと思いますが、窪田さんも星空君の演技を守ってくれたのが、見ていて自然に感じる交代で、気持ちもよかったです。

 

いじめっ子二人組のひとりだった史郎君が、精鋭の集う「福島ハーモニカ倶楽部」にいるのにまず驚き、留年したため一学年下になったはずの裕一を侮りもせず、頼みごとをしたり、レコードを一緒に聞こうと言う姿にさらに驚きました。小学生の頃の関係性って、歳を重ねても残りがちなので。

史郎は単に太郎に引きずられて、裕一をいじめていただけだったのかもしれませんね。

館林会長と裕一の密談を盗み聞きする史郎ですが、バレバレですやん(笑)。それでも気づかない裕一は、子どもの頃から変わらず鈍感さんか!

 

史郎が裕一と聞こうとしたレコードはモーツァルトのオペラ『魔笛 Die Zauberflöte』。パパゲーノのアリアや、世界でも数人しか歌えないという、コロラトゥーラ・ソプラノの難曲「夜の女王のアリア」など、裕一が聴いたらどれほど感動することでしょう。

館林会長も『魔笛』のレコードで騒いでいた裕一たちを見ていたので、モーツァルトの名前を出したのかもしれませんね。

 

弟君(浩二)は、幼少期の「お父さんもお母さんもお兄ちゃんばっかりかわいがる」をいい感じにこじらせていました。両親には兄のことをクソミソに言うのに、兄を目の前にすると強く出られないところが、否定できない裕一の才能を浩二も感じていて、よけいにコンプレックスになっているのかな、と。

浩二が存在を認めてほしい相手は、両親ではなく裕一なんでしょうね。でも、音楽家になりたいと邁進中の裕一は、幼い頃の母の愛を弟に取られたという思いもあり、弟のことは両親に任せておけばいいとアウトオブ眼中状態なので、浩二の“片思い”になちゃってます。この関係が、裕一と実家の関係に陰影をつけてくるのでしょう。

佐久本宝と窪田さんのやり取りが(襖の閉め方も含めて)、兄に対する弟、弟に対する兄の思いの見事なすれ違いを見せていて、これからが楽しみです。

 

権藤源蔵が森山周一郎と今さら知って、びっくり! あまりご無理をなさらずと思いつつ、あの渋い声をお聞きできてうれしいです。周一郎さんと風間杜夫のツーショットというのも、豪華ですね。

その源蔵の圧力で、茂兵衛が古山家に直接出向いて養子の話を出してきました。というか、何年越しの話になってるんだ……。まさの「私は古山家の人間です」という言葉は、子どもを手放すくらいなら、実家と縁を切るという決意の表れなのでしょう。


関内家も古山家も、当時では突拍子もなかった子どもの夢を認めてくれる親なんですよね。この時代で、歌手だの作曲家だのになろうとする夢について、親子の葛藤がないというのも、珍しいドラマだなと思っています。

その分の“揺り返し”が、この権藤家とずっとくすぶっている養子話になってくるのでしょうか。

 

『特捜9』の売れっ子漫画家の夫で、警視庁特捜班の刑事、青柳警部補の女房役という田口浩正が、“黒田口”のわっるい顔を見せてきました。丸顔の人が金の話をするときは、だいたい狸が潜んでいるから、気をつけなさいって、あれほど……。

 

<『エール』第12話 4月18日>

史郎はいいヤツだなあ。「僕らのこといやがりはすっけど、恨んだりはしなかっただろ」って、裕一のこと、よく見ている。前話で史郎が留年した裕一を蔑んだり、からかったりすることなく、対等につき合っているのが不思議でした。でも、太郎と別れてひとり商業学校に入学して、同じ学校出身ということで裕一に話しかけてみたら、避けられることもなく、なんとなくつるむようになったということでしょうか。

『エール』の脚本は、エピソードにちょっと違和感のあるところを置いて、次の話でその説明をするという、かがり縫いみたいな構造をしているなと思います。

 

放課後に当時では珍しかった喫茶店に寄り、裕一はコーヒーだけですが、史郎はシベリアをおかわりしているところを見ると、わりと裕福な商家の子どもだったようです。

 

館林会長の「君は本気で音楽家になるつもりだったの?」という“呪いの言葉”に、負けるものかと闘争心を燃やす裕一。でも、音楽はそういうものじゃない、「音楽はその人の個性が出るものだろ」という史郎の言葉に我に返ります。会長と裕一の曲の投票の時もそうでしたが、こんなに心底、裕一のことを心配し、一喜一憂してくれるなんて……。
「福島三羽ガラス」に引けを取らない、いい友人ではないですか! 東京編で、福島の頼もしい味方として再登場をお待ちしております。

 

史郎に「試しに僕の顔、浮かべてみてよ」と言われて、見る裕一の顔芸が! 相変わらず窪田さんの表情筋はよく動くなあ(笑)。

 

自作の楽譜に「ユウイチフスキー」と書いたのは、祐一のモデルである古関裕而が福島ハーモニカソサエティーに入団した頃、ロシア音楽に出会って、ニコライ・リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』やイーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』などにハマったからですね。

 

福島ハーモニカ倶楽部のOBの票を集めてくるとは、さすが館林会長のカリスマ性。そして、館林会長のこともよく見ている史郎。彼の解説のおかげで、館林会長も音楽に誠実な人と知れます。
音楽に関わり、作曲や演奏や歌唱や作詞などで音を創り出す人に嫌味の残る人がひとりもいないところが、『エール』の方向性なのかなと密かに感じています。今後、プロデューサーとか興行主とかが出てきたら、また変わってくるのかもしれませんが……。

さて、順風満帆に見える裕一の音楽生活ですが、好事魔多し。詐欺に引っかかった三郎は、多額の負債を抱えてしまいます。妻の実家・権藤家に頼りますが、交換条件は古山の兄弟のうち、ひとりを養子に出すこと。

 

茂兵衛の「傑作だ。この前は俺が頭下げて、今度は君が頭を下げる」というセリフ。視聴者が思うであろうところをドラマの中で言っちゃうのが、風間杜夫という役者に合っているな、と。風間さんには、ドラマを飛び越えて、メタ的なというか、客席や茶の間からヤジ(ツッコミ)を飛ばすような、それでいてドラマの枠に収まるような、境界を曖昧にする力を感じます。

いずれ窪田さんにもそういう役者になってほしいなと、個人的に思っています。

 

<『エール』第13話 4月19日>

アヴァンの10秒で裕一の様子がおかしいと気にする史郎。いや、ほんと、どこまで人のことを見ているかな。
館林会長に「裕一が変です」と告げるも「いつも変だよ」と返され、その言葉に他のメンバーもうなずきます。福島ハーモニカ倶楽部の裕一に対する認識は「変人」なのか。「いつもの変とは違う、変なんです」って史郎もフォローしないし(笑)。

 

裕一と古山家や権藤家の人々と鉄男には言葉に“遊び”がないのですが、サブ的な人々は関内家も含めて言葉や掛け合いに遊びがあって、ドラマの主流が悲劇でも、背景的な芝居は軽やかなので、重くならない。このあたりに、私は民放のドラマっぽさを感じます。重い話に暗い気分になっても、視聴している15分の間のことで、後を引かせないというか。

最近は重くて後味の悪いドラマをあんまり視聴したくないので、それはそれでいいと思うのですが、たとえば関内家の父の死や、音がお爺さんその2を演じる決意をしたのに、かぐや姫を演じることになったときの心境、そして権藤家に養子に入る形で古山家から離れなければならなくなり、音楽の道も閉ざされた裕一の気持ちなどは、もう一歩踏み込まなければいけない、余韻を引かなければならないところではないか、と感じます。

 

そもそも、この時代に家長(父親)の重大な話を、正座して聞かない息子がいるのか、と。座布団を外して、正座で聞かないんかい!

関内家の自由闊達さは、戦場で人々の死を見て、命の儚さを知り、キリスト教の信仰を通じて西洋のレディファーストなどの気風を知る安隆と、大正デモクラシーの中で進歩的な考え方を培った光子の考え方のせいと納得はできます。
でも、古山家は福島から一歩も出たことのない100年続く老舗呉服店ですよ。それも東京・横濱ではなく、福島。第二次世界大戦前の「教育勅語」の時代ですよ。父親が養子に行けと言えば、それは絶対で、どんなに不本意だろうと口ごたえなど許されなかった時代です。

 

この「親、教師、そして天皇および国家に逆らってはならない」という時代性を描いておかないと、「なぜ戦時歌謡や軍歌を作ることになったのか」の部分が軽佻浮薄なものになりはしないか。それが軽くなってしまったら、戦後の「長崎の鐘」などへの思い入れもまた軽くなってしまいはしないか。

……杞憂であるよう祈っておきます。

 

とはいえ、自室に戻ってからの窪田さんの泣きは、拒否できないやるせなさ、音楽を諦めなければならないことへの悔しさが極まって、内から外に出せないから涙もこぼれないという、すさまじい演技になっていました。「かなしさは疾走する。涙は追いつけない。」(『モオツァルト』小林秀雄)とは、この心境か。

運動会でころんだり、いじめられたりしていた子ども時代を振り返っても、裕一が涙を流したのは、消えた鉄男を想って、ふたり合作の「浮世小路行進曲」を歌ったときだけですよね。

弱々しく見えても、涙を流すのは友人との別れだけ。自分のことでは涙は流さない、窪田さんが創った裕一とは、そういう人なのかなと思いました。

 

史郎の引っかかりで視聴者に「何があった?」と思わせてからの、裕一と三郎の会話に時間を戻す方法は、面白いと思いました。第13話は福島における裕一の音楽活動のクライマックスであり、終章として印象深いものになりました。

 

演奏会の最初の曲はヨハン・シュトラウス2世作曲の「皇帝円舞曲」。

OP後の曲はビゼー作曲のオペラ『カルメン』から「闘牛士の行進」。ドン・ホセがカルメンに復縁を迫るが、闘牛士の花形であるとどめ役(エスパダ)エスカミーリョに気移りしているカルメンにすげなく拒絶されるというシーンの曲です。また意味深な選曲ですね。

 

ラストは、裕一作曲の「思い出の徑」。まさかフルで聞けると思わなかったので、感動しました。西洋音階と和音階の折衷に哀愁のマイナー。「浮世小路行進曲」といい、「道」が好きですね。思わず、東山魁夷の「道」を思い出しました。

養子に行けと言われた時のこと、そのときの気持ちを思い出しながらタクトを振る姿は、痛々しさもありながら、凛として、「これが最後」という迫力に満ちていました。立ち姿が美しいのと、指が長いから、指揮者姿が似合いますね、窪田さん。これからちょいちょい見られるかと思うと、うれしいです!

 

三郎の涙は、自分の過ちで「天才音楽家となるはずだった息子」を殺してしまった悔恨からだと思いたい。

そして、藤堂先生が駆けつけてくれたのもうれしい。家族に、藤堂先生、館林会長、史郎と、裕一の音楽活動をこれまで見守ってくれていたすべての人に、感謝の思いのこもった曲を聞いてもらう。すばらしい「福島・古山家編」有終の美となりました。

 

何気に喜多一の番頭さんから手代までそろって、裕一を見送ってくれたのがうれしい。いつものように「行ってらっしゃい」と言いかけた番頭さんが、「坊っちゃん、風邪引かねえようにね」と泣きそうな顔。使用人たちにとって、裕一は主人一家の一員だけど、自分たちの家族でもあったんだろうな、と感じられて、印象的でした。

 

さて、裕一の部屋へ断りもなく上がってきた川俣銀行の面々のおかげで、消沈した空気が一掃されました。頭取をはじめ、またクセの強そうな人がそろってますね。

古関裕而は川俣銀行に勤めながら、作曲に励んでいたというエピソードがあるくらいなので、昔の地方銀行は緩かったのかもしれませんね。

 

 

連続テレビ小説『エール』第2週 Tweetまとめ

連続テレビ小説『エール』イメージ

 

<『エール』第6話 4月7日 Tweet

藤堂先生は挫折を知る人であったか。「俺は無いものを追ったんだ」という言葉に、才能を持つ人に対する複雑な思いが覗きました。でも、だからこそ、教師になって子どもたちに音楽を教え、子どもの才能を見つけて喜び、その開花を助けようとする。先生の懐の深さがわかった回でした。

 

父親に殴られる姿なんて同級生に見られたくなくて、逆上する鉄男の気持ち、よくわかります。でも、それを八つ当たりだったと認めて、「筋を通す」鉄男、カッコよすぎます! ケンカに強いだけではなく、この「筋を通す」あたりが、謹厳・質素で「歴戦の功将、人格高潔な武将」と言われ、明治天皇崩御の際に殉死した「乃木大将」のあだ名が付いた所以でしょうか。

ちなみに、乃木大将については、軍功や人となりが講談や詩に取り上げられ、伝記も出版され、「乃木将軍と辻占売り」という唱歌にもなったとのことで、当時の小学生があだ名に使うほど知られていたようです。

 

文字どおり雨降って地固まるで、一気に距離が縮まった裕一と鉄男。子ども時代に、きちんとドラマの山場があるのはすばらしいと思いました。

 鉄男の詩に裕一が曲をつけた「浮世小路行進曲」。小学5年生とは思えない洒落た曲名は、背伸びしたいお年頃でしょうか。この曲のイン/アウトのタイミングもいい。

 

この別れからの裕一(窪田正孝)と鉄男(中村蒼)の再会が楽しみです。山崎育三郎扮する久志が妖精ぶりを発揮するのかも気になります。

そう思えるのも、石田星空、込江大牙、山口太幹の子役たちが役を生きてくれたからですね。特に鉄男役の山口君の表情の変化が大変細やかで、ガキ大将で文学少年で詩人という多面的なキャラクターを見事に具現化していました。石田君の品のいい坊っちゃんぶりも、山口君の独特の力のヌケ感も本当によかった!

 

 

 <『エール』第7話 4月9日 Tweet

関内家の三姉妹を見ていると、『若草物語』を思い出します。吟はメグ、音はエイミー、梅はジョー。それぞれキャラクターが立っていていいですね。特に梅のツッコミが好きです。吟、音と音楽できたのに、三女だけ花の名前なのも謎。

音の部屋に鼓、琴に、当時は珍しかったであろう舶来のマンドリンがあるのが、両親そろって生粋の音楽一家!

 

双浦環が歌うのは、プッチーニ作曲のオペラ『ジャンニ・スキッキ』からスキッキの娘ラウレッタのアリア「私のお父さん(O mio babbino caro)」。安隆と音の父娘が、オペラのスキッキとラウレッタの雰囲気に似ていて、秀逸な選曲だと思いました。特に川俣の教会で音が歌いたいと安隆の手を引いた時の感じが……。

 

『ジャンニ・スキッキ』とはどういう作品かというと、西洋版「狐と狸の化かし合い」みたいな小品です。亡くなった富豪の財産分与をあてにして、結婚の約束をしたリヌッチョとラウレッタ。けれども遺言状には全財産を修道院に寄付するとあり、結婚資金のないリヌッチョはラウレッタと結婚できないことに。ラウレッタは、法律に詳しく、頭の回転が速い父に助けを求めます。

「私のお父さん」はそのとき歌われるアリアで、「お父さん、彼を助けて。彼と結婚できないなら、私、川に身を投げるわ」という内容。スキッキがたじたじとなるのが面白いシーンです。『エール』でポイントポイントに流れる曲は意味ありげなので、さて、これも何かの暗示になっているのでしょうか。

 

 <『エール』第8話 4月9日 Tweet

環が音に渡したレコードは、プッチーニ作曲の『蝶々夫人』のアリア「ある晴れた日に」。双浦環のモデルである三浦環は蝶々さん役で有名な方だったそうなので、「なるほど」です。

この年齢で「こうなりたい」という具体的な理想像を得た音がちょっとうらやましい。あとは、ただひたすら目指すだけだもの。

 

この時代に夫と差し向かいで晩酌をするのみならず、手酌で酒を飲むとは。光子さん、思った以上に進歩的だわ。子どもたちのアカペラでワルツを踊っちゃう夫婦、いいですね。こういうときに、サラッとチャイコフスキーくるみ割り人形』の「花のワルツ」が出てくるところが、音楽一家だなあと思います。

 どこまでも進歩的で欧風で、夫唱婦随の純和風な老舗呉服店・喜多一とは対照的。全く違う家風の、唯一の共通点が音楽が流れる家というのが面白いです。

あえてもうひとつ共通点を言えば、古山家は両親が、関内家は姉妹が、襖や戸の隙間から様子をうかがうことですね(笑)。わりと露骨に覗かれているのに、全く気づかない裕一と、普通に気づく音の差もおかしいです。

 

さて、もたらされた不穏な知らせは『かぐや姫』に影響するのかな。気になるところで、続く!

 

 <『エール』第9話 4月12日>

やはり関内家サイドの物語は『若草物語』であったか。父親不在の理由は違えど、経済的危機を、やさしく、しかし凛とした母と、それぞれが持たないものをそれぞれが補い合うような娘たちが知恵や特技を出し合って乗り越えていくさまは同じです。

 

「やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいい」。安隆の、この時代には当たり前だった亭主関白ではなく、妻や娘に自由な振る舞いをむしろ推奨する、先進的で西洋的な考え方と愛情深さ、この先、音の指針となるであろう座右の銘が丁寧に丁寧に描かれるのでイヤな予感がしていましたが……。


個人的に光石研が好きなので、もっとこの方の安隆を見たかったなあ。ここでお別れなのは残念です。

 

双浦環が、教会でなぜ十八番の「ある晴れた日に」ではなく「私のお父さん」を歌ったのか不思議だったのですが(「ある晴れた日に」を歌ったほうが、レコードを渡す理由もストレートになる)、今後、音が「お父さんがいてくれたら」と思うようなことに出会うたびに、環の歌う「私のお父さん」(O mio babbino caroああ、私の大好きなお父さん)を思い出すのだとしたら、これまた「なるほど」な選曲。

 

夫を失ったとたん、光子に封建社会(男社会)の女を対等と認めない男の偏見といやらしい下心が襲ってきます。

薬師丸ひろ子の「かなりまず…い↑」の言い方が、娘に心配をかけたくない、自分でも明るくいたい、でもどうしようもなくてくずおれそうという、複雑な心境を端的に表していて、感嘆しました。

 

古山家サイドも関内家サイドも子役が本当に上手だなあと感心するのですが、特に関内家の姉妹は、光石さんや薬師丸さんに上手いこと引っ張られてますね。

親を失った悲しみの表現なんて、子どもたちにはなかなか難しいと思います。でも、薬師丸さんの表情や声のトーンで、素で泣かされてしまうから、あとはそこにセリフを乗せるだけでいい。

光石さんも薬師丸さんも、自分たちの役を生きる芝居に子役たちの気持ちを巻き込んでしまうから、彼女たちも自然に自由に演じられたのではないかと思います。ベテランの役者はかくあるべき、と感じつつ。

 

 <『エール』第10話 4月12日>

「怒りって必要よ」。音が元気になった理由は、自分を「女子ども」と見下していた職人頭の岩城が、安隆が亡くなるや逃げ出した怒りから。

いや、ホント「怒りはパワー」です。たぶん喜怒哀楽の中で一番パワーに変換しやすい感情です。ここで、ようやく音に親近感が湧きました。

 

吟に、家を守るために男になれと迫る音と梅。しかし「ときどき鋭い」吟に反撃されてしまいます。「歌手や作家になるより、お嫁さんになるほうがよっぽど確率高いから。私のほうが明確じゃない?」。ぐうの音も出ない音と梅が面白い。

そして、梅はいくつよ!? 私、「甲が」「乙が」などと書いてある文書(契約書とか定款とか)を見ると、頭が痛くなるか眠くなる呪いがかかっているので、「梅ちゃん、すごい!」の心境です。契約書のペナルティ事項を思い出す吟もただ者ではない!

 

姉妹に後押しされた“黒光”の反撃も胸すくものでしたね。打越の背景に「ぎゃふん」という文字が浮かんでみえました。

まあ、朝ドラという番組の性質上、まだプロローグの段階で視聴者をモヤモヤさせたまま次週に持ち越さないだろうと思いましたが(そして、スッキリできてよかったのですが)、展開が早いなあという感覚は否めません。やはり土曜日の1話分がないと、物足りない気がします。

殊に関内家はたった4話分(1時間)でしたからね。光石さん、薬師丸さんと子役たち、それに平田満、吉原光夫、宇野祥平(熊谷先生)と渋い役者が揃い踏みで、とても1話15分とは思えないドラマを見せてくれましたが、それでも足りない。「尺」の大切さを痛感しました。

古関金子が古関裕而と知り合ったのが、彼女が小学5年生の時に学芸会で「かぐや姫」を演じたことで、裕而さん作曲の『竹取物語』が日本人で初めて海外のコンクールに入賞したと報じた新聞記事を見て、楽譜がほしいと手紙を送ったというきっかけ。
音がかぐや姫を演じなければ、ふたりの出逢いはなかったかもな大事なファクターなので、音が演じることになるんだろうなとは思っていましたが……。ちょっと展開がベタすぎましたよ(苦笑)。「自分の役割に誠実であれ」「目の前のことに全力を尽くしなさい」というお父さんや環さんの教えが、ふわんと宙に浮いちゃうぞ。

まあ、落としどころは、音が誠実にお爺さんその2に向き合うために、『竹取物語』を読み込んで、すべてのセリフを覚えるくらい全力を尽くしたからこそ、譲られたし、皆の賛同も得られたってことなんだろうけど。

 

あと、未だにこの時代の「教会」の役割が謎。確かに、イースターのような特別な日も含めて、月に一度くらい、日曜礼拝が終わったあとで、信徒が楽器を持ってきて演奏したり、歌を歌ったり、手作りのお菓子を配ったり、ということはあったけれど。礼拝や冠婚葬祭以外で聖堂を開放したり、礼拝以外で賛美歌を披露するということはなかった気がします。
キリスト教考証の方がスタッフに加われているので、この時代、あるいは地方によってはあったのかもしれませんけどね。

 

さて、最後にちらっと窪田正孝演じる裕一がちらっと。授業中に作曲してるわ、留年してるわ(笑)。商業学校4年生を留年ということは、18歳かな。なかなか詰め襟がお似合いで。
次回から窪田さんがどのような“古山裕一”を見せてくれるか、楽しみです!

連続テレビ小説『エール』第1週Tweetまとめ

連続テレビ小説『エール』イメージ

 

NHKで放映中の連続テレビ小説『エール』に関して、第1週分のTweetをまとめました。ついでに、字数で省いたこともちょっとだけ加えています。

今、Tweetできているのは、テレワークのおかげで、平日の通勤時間がないため(2時間ほど時間ができているのです)。いつまで続けられるかわかりませんが、書ける間は書いていこうと思っています。

 

<『エール』第1話 4月1日 Tweet
最初、何が始まったかと思いましたよね。魚を逃した原始人? 妻子を亡くした開拓者?? 恋人を失った70年代フォークシンガー??? プロポーズフラッシュモブをスベらせたサラリーマン(青スーツが『ラストコップ』のモッちゃんを彷彿させます)まで、悲劇ばかりの窪田正孝NHKの制作サイドの誰かの心に『平清盛』の重盛の苦渋の顔が焼き付いていると見ました(笑)。

 

フラッシュモブの中の清掃員の長髪のおじさんが気になって……。窪田さんのダンスはもちろんキレッキレでしたが、このおじさんのダンスも目立っていました。あれだけの分数にすごいプロをつれてきた感。

 

一転して、「東京オリンピック・マーチ」の作曲に苦心している古山裕一、55歳。音の歌声に気づいて立ち上がる姿が、実に50代。一瞬前にハツラツとフラッシュモブを踊っていた人とは思えません。背筋を伸ばして立つ姿には30代の若さが見えるのだけど、ふと大儀そうに見せる動作に、50代半ばの人間の“半世紀分の重力”を感じさせます。

 

やはり白眉は、長崎で親族全員を亡くした警備員(萩原聖人)に励まされたときの表情ですね。裕一の「長崎の鐘」に生きる希望をもらったという警備員。自分の曲が多くの若者を戦争に追いやり、死なせてしまったという悔恨に、その言葉は救いであり、刃でもあり。複雑な胸中を微妙な表情変化で“見せる”窪田さん、さすが!

 

「時に音楽は人の喜びを大きく楽しく盛り上げてくれます」

「時に音楽は人の悲しみに寄り添ってくれます」

「時に音楽は折れかけた心に力を与えてくれます」

「時に音楽は現実逃避の手助けをしてくれます」

「時に音楽は人生をかけた一大事に力強い武器となってくれます」」

人類史と共にある音楽を語る冒頭、そして警備員に向けたこの裕一の表情で、『エール』がどのようなドラマになるのか、ポリシー的なものは見えた気がします。

いい意味でも悪い意味でも「なぜ人は音に魅せられるのか」。長い物語はこの表情に帰着し、さらに変化するのでしょう。第2話の「威風堂々」が「オリンピック・マーチ」に昇華するように。その日まで、できるだけがんばって追いかけていきたいと思います。なにより、音楽ものは大好物ですしね。音楽には間違いなくセイレーンのような魔物が棲んでいるので。

 

語りの津田健次郎の声も、物語の邪魔をせず、でもそこはかとなく茶目っ気もあって、聞いていて心地いい♥ 制作サイドが『エール』の語りに津田さんを選んだ理由が知りたい。でも、わかるような気がしています。

 

裕一が「オリンピック・マーチ」を譜面に起こすときの仕草が、『探偵、青の時代』の講義の最中に小説を書いているアリスを彷彿させたとは、口が裂けても言えない(笑)。

 

<『エール』第2話 3月31日Tweet
裕一が最初に聞いた西欧音楽はエルガーの「威風堂々(Pomp and Circumstance )」ですか。

原題はシェイクスピアの『オセロ』の第3幕3場のオセロのセリフ「Farewell the neighing steed and the shrill trump, /The spirit-stirring drum, th' ear-piercing fife, /The royal banner, and all quality, /Pride, pomp, and circumstance of glorious war!」(進軍する馬と高らかなトランペット、心を鼓舞する太鼓、耳をつんざくような笛、翻る気高き旗、そして誇り高く、壮麗なる戦争のページェントよ、さらば!)が由来とされているので、これからの(特に第二次世界大戦前後の)裕一を暗示するかのようでもあります。

 


<『エール』第3話 4月1日 Tweet
「福島三羽ガラス」がそろいました。子どもながらにすごい個性を持った鉄雄と久志。ふたりが裕一とどんな友情を育んでいくのか、とても気になります。

 

恩師となる藤堂先生は、森山直太朗とは気づかなかったくらい”音楽の先生”でした。風間杜夫もいかにも地方の名士でやはり上手い! 子役たちも、窪田正孝に、中村蒼に、山崎育三郎に引き継ぐ“その後”を意識しながら演じているようで、勘がいいなあと感じます。

 

その中で一人、古山三郎ではなく「唐沢さんだなあ」と思ってしまう唐沢寿明。役に演じ手が透けて見えるのも俳優の在り方としてアリですが、今作の座組では少々浮いて見えます。特に、萩原聖人の萩原さんと気づかないほどの警備員を見てしまうとね。

 

<『エール』第4話 4月2日Tweet
わら半紙が懐かしい。音符と拍の長さをリンゴで描いているのが、かわいい。しかし、いきなり作曲しろとは、藤堂先生も結構無茶ぶりな人だなあ。それも即興鼻歌とかじゃなくて、五線譜に起こせとは……。

それでも(父親から教本を与えられるというアドバンテージがあるにせよ)、自分がこれまで聞いてきた音や曲を思い出して、旋律を引っ張り出す裕一。早速、才能の片鱗を見せました。

 

文章にしろ絵画にしろ勉学にしろ、“天賦の才能”を持つ人は、「さあ、やろう」などと思う前に自分の内側から文章が、線や色が、理論や方法があふれてくるのだと思います。それはもう、身近に数学大好きな甥を見ていたのでわかります(高校の数学ドリルを嬉々として解く小学5年生なんか、理解の外!)。

それが特に顕著なのは音楽で、才能のある人というのは、生活の音すべてが曲に聞こえてしまうくらいなのじゃないかな、と。

 

第4話のキモは、自分が記憶してきた音が、小山田耕三(山田耕筰)の作曲教本という作法を得て“音楽”になった、つまり裕一が外に出せなかった“自分(才能)”を表現できる作法を得たということじゃないかなと思います。

 

石田星空くんが役になじんできたようで、裕一の結構“陽キャ”なところが出てきてなにより。

実際、二十歳前の古関さんは、大御所の作曲家だった山田耕筰にファンレターと一緒に自分の曲を送りつけたり、竹久夢二展で見た絵に曲をつけて、夢二に会いに行って本人の前で歌ったり、ちょっと爆走機関車みたいなところのある方だったようなので。

 

第4話の小さな不満は、賛美歌312番「いつくしみ深き」の歌い終わりに「アーメン」がなかったことです(あるべきものがないのは、ちょっと気持ち悪い)。そして、今後の楽しみは、裕一と鉄男がどのようかきっかけで仲良くなるのか、ですね。彼の詞に、裕一が曲を書くようになる過程が早く見たいです。

 

<『エール』第5話 4月4日Tweet
「福島三羽ガラス」の個性が際立ってきました。「存在感はあるのに、気配を消すのは得意」(自分で言うんだ)な神出鬼没の妖精に、「悔しいことを笑ってごまかすな」と悔しさを呑み込んで逆境に耐えるナイト気質の文学少年。さて、裕一はというと、騎士と妖精に守られるアマデウス(神の愛し子)かな……。

 

久志が口癖のように言う「伝わらないんなら、いいや」という言葉が気になります。久志が裕一に興味を持ったのは、裕福な家の息子という共通点からで、「伝わる」部分が多いと踏んだからでしょう。

それでも裕一に「伝わらない」部分がある。それを「違い」と達観して諦めたまま友達づき合いをしていくのか、どこかで裕一が「伝わらない」のではなく「伝わらせる」ことが大事なのだとブレイクスルーするのか。後者を期待したいです。

 

裕一と浩二の関係もなかなかに複雑そう。兄は母にベッタリの弟がうらやましく、弟は父にいろいろ買ってもらったり、一緒に音楽を聴いたりしている兄がうらやましい感じでしょうか。

奔放な兄を持つ、真面目な弟の気苦労や複雑な葛藤が今から想像できるような……。

 

「赤い鳥」(西條八十北原白秋)や山田耕筰(小山田耕三)の『作曲入門』、竹久夢二が表紙を描いた「セノオ(妹尾)楽譜」など、これからを予感させる布石が打たれているのが期待を膨らませます。

 

さて、来週は音サイドなのかな。なぜ音が福島・川俣の教会で聖歌隊に混じって歌っていたのかがわかるみたい。ゆるい気持ちで観ますよ(笑)。

 

 

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決定盤シリーズ 栄冠は君に輝く 古関裕而大全集

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映画『ファンシー』のイメージは旧「クールミント」のイラスト!

ロッテ旧「クールミントガム」のイラストっぽいもの

ロッテの旧「クールミントガム」のイラストっぽいもの

 

映画『ファンシー』の南十字星ペンギンは、久しぶりに「窪田正孝ならでは」の役を観た、という印象でした。

コウテイペンギンが、南極大陸の氷原で斜め上を見たまま立ち尽くしている、その不動のシルエットとか。たまに下を向くときの、重力に負けたかのようなくにゃり感とか、歩く時のペタペタ、ユラユラしたぶきっちょ感とか、「うん、ペンギンだ」と思いました。

 

浮かんだイメージは、ロッテの旧「クールミント」ガムの、星空の下、氷山を背景に、空を見て立つペンギンのイラストです。一見、ペンギンは凍った世界にひとり立っているのですが、よく見ると、つかず離れずの距離でゆったり潮を吹いているクジラがいます。お互い別の方向を向いているのですが、この小さなイラストの閉ざされた静かな世界にふたりきりでいるんです。

冷え切ったリビングでくつろいでいるペンギンと郵便屋さんの距離感が、「クールミント」のペンギンとクジラみたいだなあと感じたのでした。

 

ちなみに、1960年から1993年に「クールミント」のデザインが一新されるまでのイラストなので、知らない方もいらっしゃるかと見様見真似で描いてみました(上記)。

実物を見たい方は、下記リンクをご覧ください。

ガムの歴史:グリーンガム&クールミントの進化|ガムタウン|工場見学・学ぶ|お口の恋人 ロッテ

 

さて、先にコウテイペンギンと書きましたが、窪田さん扮するペンギンは、目だけを言えばアデリーペンギンっぽいんですよね。原作のペンギンも、目の印象だけを言えば、アデリーペンギンっぽい。

てっきり『ジョーカー 許されざる捜査官』第4話の椎名高弘役の、あの狂気の宿ったぐるぐるぎょろぎょろの目の演技から、窪田さんがペンギン役に抜擢されたのかと思ったのですが、違ったようです。

私はアデリーペンギンだけには「かわいい」より「気持ち悪い」が先立ちます。その理由もわかっています。目の周りに白いアイリング(囲眼羽)があるからです。

黒目の全周囲に白目(白い部分)が見える「四白眼」は、表情が読みにくく、また滅多に見ないものだけに違和感を覚えます。その目を芝居でできてしまうのが窪田さんで、まさに原作の、そしてお面どおりの、浮世離れした“ペンギン”そのものに变化(へんげ)していました。

 

さて、「ファンシー(空想。想像。気まぐれ。思いつき)」なんてタイトルなのですから、気まぐれに思いつくまま書いてみましょうか。

 

夜は彫師、昼は郵便配達員(郵便屋さん)という、ふたつの職を持つ鷹巣明(永瀬正敏)。

この彫師という職業が絶妙だと思うわけです。「絵を描く」なら画家という“アーティスト”です。でも、人肌に針で色を刺して描く絵はアート(芸術作品)とは評価されません。刺青を入れたがる人間は、男も女も闇の世界に生きる者。昼の世界では刺青は服の下に隠されて、誰に見られることもありません。それどころか、背中の刺青など、背負う本人さえ直視することはないのです。

カジュアルな「タトゥー」なら、ファッションとして昼の世界を謳歌して、アートと評価されたかもしれません。でも鷹巣はそれを良しとはしません。鷹巣の離婚した奥さんが、現在はタトゥーの彫師の連れ合いとなっているのが象徴的です。

鷹巣には、思春期に目撃した、女の背中とそれに牡丹を彫る父親(宇崎竜童)の姿が、彫師としての“究極の美”として焼き付いているのかも、と思いました。背中に刺青を彫るような人種が少なくなってきて、衰退するばかりの“美”に、妻子に去られ、田舎町でダブルワークをしながらしがみついてしまうのは、“究極の美”を知り、魅入られてしまったからなのでしょうね。

そして、それと同じものが決して手に入らないということまでわかっているからこその、あの悟ったような虚無感なのだと感じます。

 

鷹巣が、父親が埋まっているところに登っていくように、やはり登っていくところがあります。高台にある詩人・南十字星ペンギンの家です。

家を冷房フル稼働でキンキンに冷やしている彼はペンギンで、風呂は氷水だし、食べ物は氷漬けのイワシです。それなのに人語で詩を紡ぎ出し、箱にいっぱいのファンレターを鷹巣に届けさせるのです。

自分の詩(アート)ひとつで生活しているペンギンは、鷹巣には見上げる存在です。反面、人の心を惹きつける詩を書けても、人間の生々しさを知らないペンギンは、人間の表も裏も知り尽くした鷹巣には「人畜無害のケモノ」でしかないのです。

 

人生の酸いも甘いも噛み分けた報われないアーティストと、浮世離れしたところさえ魅力に思われる、世に認められたアーティスト。タイプの違うアーティストの葛藤を描いた作品は山のようにありますが、鷹巣とペンギンのバランスとベクトルにはこれまでにない新しさを感じました。

 

この映画のもうひとつのモチーフは、ペンギンが仰ぎ見る“月”なのではないかと思います。

そう考えれば、鷹巣にとって高台に住むペンギンはたぶん、凍ってて不毛(不能)なのに、皆に見上げられる(憧れられる)“月”なのでしょう。

月夜の星にとってペンギンは、ふわふわした思いを言葉にして届けてくれる、輝きながら寄り添ってくれる“月”だったのでしょう。

ふたりの“月”であるペンギンにとっての月は、孤高でありたいのに、自由に空想したいのに、人間の性(さが)に引き止められて、その域に到達できない場所なのかもしれませんね。あるいは逆に、詩人(ペンギン)だからこそ手に入れられない、人間の性そのものなのかもしれません。

 

ペンギンのデスクの上のチェスの駒が赤と白で、彼の気分によって駒の並び方が変わるのが細かい! さらに、彼が目指したのが、赤と白の月だったこととか、意味深かもしれませんね。赤は生の色、女性の色(経血)、白は死の色、男性の色(精液)を表すとか言いますよね。

(ちなみに、知人の付き添いで廣田正興監督にお会いした時、監督は「ピンクの月」とおっしゃっていました)

 

さて、この作品、月夜の星も言っていたけど、鷹巣とペンギンのプラトニックラブを感じるんですよね。山本直樹作品らしい(というか、私が知っているのは森山塔名義の作品のほうですが)、歪な男女関係がどろどろ展開する中で、このふたりのシーンの遠慮がないのに思いやりがある会話は、なにか貴重で大切なものに感じました。

 

この映画の舞台設定も秀逸だなと思うのは、郵便局の存在ですね。
私が子どもの頃、地元の郵便局は「世襲制」と言われていました。明治時代に、郵便網の構築を急ぎつつも、資金がなかった政府が、地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供させる代わりに郵便事業を委託したのが始まりで、以来、代々受け継がれたからです。

だから、郵便局の局長さんは特別な存在で、「地域のことを何でも知っている」と思われていました。区域の住所はもちろん、世帯構成とか、誰がどこにどんな手紙や荷物を送ったとか、郵便貯金とか、把握できてしまう仕事ですからね。

2007年の郵政民営化以降はそのような特別視はなくなったように感じます。

 

ただ、特に地方の郵便局がそういう存在だったと思えば、局長(田口トモロヲ)の黒幕ぶりが、私の記憶の中の「郵便局」像にぴったりハマるんです。子どもの頃に感じていた郵便局の敷居の高さ=触れてはいけない感覚が蘇って、思わず鳥肌が立ちました。

 

それと、この映画はおそらく、鷹巣が生活している郵便局と刺青を通じた闇の社会を現実、鷹巣が入り込んでいくペンギンの暮らしを幻想に設定して、「現実とファンタジーの間を揺らめく男女3人の関係性」を描いているのだろうと思います。

しかし、私には、むしろヤクザの抗争や郵便局長の逆襲のほうがファンタジーで、ペンギンと鷹巣、月夜の星の関係性のほうがリアルに感じました。

それは、ヤクザや善良な市民の裏の顔がフィクションに取り上げられすぎて、むしろ作りごとに感じてしまうからかもしれません。あるいは、広島抗争をはじめ暴力団同士の抗争が、昔ほどに至近で起こっているように感じられなくなったからかもしれません。今でも分裂抗争は起こっていて死傷者も出ているのですが、この「遠い」感覚はなんだろうと我ながら不思議です。

たぶん、鷹巣の感情線が、刺青を入れにきた組長殺しの犯人・新田(深水元基)や親の跡目を継いだホテルの社長兼組長・国広長谷川朝晴)や郵便局の面々に対してより、ペンギンと月夜の星に対してより揺れ動いていたからなのでしょう。やはり主人公の感情線が通っているほうが、映画における“現実(リアル)”なんだな、と改めて気づかされた気がします。


女性陣の配役もぴったりで、月夜の星役の小西桜子は「デビュー作でここまでしていいの!?」と驚くくらいの体当たり演技で、夢見がちな少女から現実的な女性へと見事な変貌を見せてくれました。3週間遅れて公開された窪田さん主演の映画『初恋』でも危うくて純粋な少女を演じていますが、『ファンシー』の月夜の星とは同一人物が演じているとは思えないほど“別人”で、ますます将来が楽しみな女優さんです。

あと、つぼみの登場には驚きました。AV女優の中でもその美しさや演技力の高さは一頭抜けてる方だと思っていたので、キャスティングの慧眼に恐れ入りました。

 

映画『ファンシー』、公開が拡大しているようです。
新型コロナウイルスの感染拡大で自粛が叫ばれていますが、この状況が治まり次第、ぜひ劇場で観ていただきたいですね。

監督の「表現したい」思いに、俳優さんたちがみんなで応えようとしていらっしゃるのが見える、素敵な映画だと思っています。


特に三池崇史監督の映画『初恋』とご覧になりましたら、『ファンシー』と『初恋』という、近い時期の窪田さんと小西さんの役柄や演技の違いも堪能できますよ!

 

テアトル新宿

テアトル新宿にて

パンフレットと「長野県千曲市ロケ地MAP」

パンフレットと「長野県千曲市ロケ地MAP」

 

『東京喰種 トーキョーグール【S】』 A Study in 'S' Part 1

 『東京喰種 トーキョーグール【S】』の「S」について、「Special(特別編)」とか、「Side Story(外伝)」とか、「Spin-off(派生作)」とか、本作の“主役”である月山習の「Shu」とか、それこそ窪田正孝さん曰くの「(松田)翔太さんの『S』」とか(笑)、それが表すモノはいろいろ考えられます。公式は「解釈は、映画を観た人に委ねたい」というスタンス。
 ナゾナゾを仕掛けられた気分になったので、その「S」についてつらつら考えてみました。

 

※ネタばれOKな方だけ、「続きを読む」からどうぞ。

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Hatena DiaryからHatena Blogに引っ越しました!

 かなり前のことになりますが、Hatena Diaryの機能停止に伴い、Hatena Blogに移行しました。現在、Hatena Diary版の「Diary For Paranoid @ hatena」は閲覧のみ可能になっていますが、いずれ全削除される可能性があります。

 もし各記事にリンクを張ってくださっている方がいらっしゃいましたら、こちらに張り直していただけましたらありがたいです。

 

窪田正孝関係の主な記事

wolfcave44.hatenadiary.jp

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 お手を取りまして、申しわけございません。

 よろしくお願いいたします。

 

誤読をおそれず、2019年版『唐版 風の又三郎』を考えてみた

 『唐版 風の又三郎』を考えるとき、必要と感じたのが、以下の年表である。
1937(昭和12)年12月 9日 日本海軍の戦闘機操縦士・樫村寛一の片翼帰還
1940(昭和15)年 2月11日 東京都台東区下谷万年町唐十郎誕生
1941(昭和16)年12月 8日 太平洋戦争開戦
1945(昭和20)年 8月15日 太平洋戦争終結
1970(昭和45)年11月25日 三島事件
              作家・三島由紀夫自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけ、割腹自殺
              「<日本を守る>ための<健軍の本義>に立ち返れ」(憲法改正)の決起
1973(昭和48)年 6月23日 自衛隊機乗り逃げ事件
               21時頃、栃木県の陸上自衛隊北宇都宮駐屯地からLM-1型連絡機が離陸
               飲酒した整備員3陸曹(当時20歳)が行方不明、機も消息を断つ
1974(昭和49)年 4〜7月 『唐版 風の又三郎』上演

 

 誤読を恐れずに言うなら、『唐版 風の又三郎』は3つの世代の物語である。
 ひとつは、戦争を体験している世代=教授・珍腐・淫腐・乱腐
 ひとつは、戦争は知らないが、自衛隊の存在を身近に感じている世代=エリカ・夜の男・死の青年(高田三郎
 ひとつは、戦争を知らず、自衛隊の存在も忘れがちな世代=織部

 彼らを分断するものは、飛行機の音である。教授たち「帝国探偵社(テイタン)」に蠢く者たちにとってそれは日中戦争から太平洋戦争にかけての「片翼帰還の英雄」(過去の栄光)の音であり、エリカにとっては恋しい自衛隊員が自分の元へ飛んでくる音であり、織部にとってはラジコン飛行機の音に聞こえる。
 この「聞こえる音は同じなのに、人によって想起するものが違う」という現象が、この演劇の入口が「聞くこと=耳」であり、テーマが「戦中世代、戦後世代、平和ボケ世代の世代間断絶」であることを示唆する。

 

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