Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

『東京喰種 トーキョーグール【S】』 A Study in 'S' Part 1

 『東京喰種 トーキョーグール【S】』の「S」について、「Special(特別編)」とか、「Side Story(外伝)」とか、「Spin-off(派生作)」とか、本作の“主役”である月山習の「Shu」とか、それこそ窪田正孝さん曰くの「(松田)翔太さんの『S』」とか(笑)、それが表すモノはいろいろ考えられます。公式は「解釈は、映画を観た人に委ねたい」というスタンス。
 ナゾナゾを仕掛けられた気分になったので、その「S」についてつらつら考えてみました。

 

※ネタばれOKな方だけ、「続きを読む」からどうぞ。

 

 ● Structure(構造)
 映画前作は「喰種(グール)」VS「人間」の単純構造でした。喰種は人間を捕食する存在であり、当然、人間は喰種を駆逐しようとします。すなわち喰種と人間は、同じような容姿、同じような知的レベル、同じような感情構造を持ちながら、絶対に相容れることのない、ふたつの種族であるわけです。
 そこに、不慮の事故で後天的に喰種になった、元は人間の「半喰種」、すなわち金木研(カネキ)が”生まれて”しまいます。彼は元人間なので、同族である人間を殺して食べることができません。しかし、どうしようもなく人間の肉を求めてしまう本能や驚異的な身体能力、そして捕食器官である赫子を持つ彼は、人間にとって忌むべき喰種です。人間としてはもはや生きられない、でも喰種としても生きられない金木の葛藤が、前作の大きなテーマでした。

 

 本作では、前作では霧嶋董香(トーカ)とクラスメイトの小坂依子のやり取りという形で触れられた、喰種と人間の関係がより踏み込んで描かれます。
 自分の正体を言えないまま、人間の依子と親友としてつき合っているトーカ。彼女は、いつか自分が喰種であると依子に知られたら、「あんていく」を中心とする喰種のコミュニティを守るために殺さなくてはならないと覚悟し、特に本作では思いつめて離れようとします。
 同じくカネキにも、人間だった頃からの親友・永近英良(ヒデ)がいます。ただ、カネキはヒデに絶大な信頼を寄せ、彼といることで“人間”を保っているところがあるので、正体を知られたとしてもヒデを殺すという選択肢がなく、トーカのような追いつめられ方はしていません。それでも、ヒデと人間同士としてつき合っていけるのかという不安はあるでしょう。

 

 そんなふたりの前に現れたのが、西尾錦(ニシキ)の恋人である人間の西野貴未(キミ)です。喰種の本能を表したニシキに食われかけながらも、それを受け入れ、彼を抱きしめたキミ。そんな彼女にニシキも心を許し、ふたりは隠しごとなく愛し合う恋人同士です。
 喰種を受け入れるということは、相手が「人を殺さないと生きていけない殺人鬼」であることを認めること。自分が属する人間という種族に背き、相手が理性を失うようなことがあれば食われるかもしれないという恐怖を乗り越え、たとえそうなっても「それでいい」と思えること。
 そこまでの愛を喰種に捧げる人間がいるという事実は、トーカにもカネキにも希望の火を灯しました。

 

 一方で、月山習や彼の美食仲間たちは、人間を食材としてしか見ていません。月山がカネキを手練手管を駆使して喰種レストランに誘ったように、彼らの関心事は目をつけた人間をいかにしてレストランに連れ込み、悲鳴を楽しみながら、美味しくいただけるか。
 人間(キミ)を食べるカネキを食べたいという欲求のままに、キミを誘拐し、食べさせようとする月山に、カネキは「命をなんだと思っている!」と怒ります。が、喰種としては、月山のほうが“当たり前”なんですよね。人間だって、美味しい食材を美味しく料理して食べたいと常々思っているのですから。喰種にとってはその食材が人間というだけです。

 

 つまり本作は、喰種という種族の中に、人間を殺すことに「罪悪感を覚える」すなわち「人間は喰種と同等と見る」チームと、「罪悪感など覚えない」すなわち「人間は食材と見る」チームという構造があることを教えてくれました。


● Starvation(飢餓)
 月山に供される「双子の合挽き肉のソーセージ」や「ヴィーガンのもも肉のソテー」。聞いたときは「うえぇ……」と思いましたが、考えるまでもなく私たちも「仔羊の低温ロースト」とか「仔牛のブランケット」とか「牛ヒレとフォアグラのロッシーニ風」とか美味しくいただいているわけで、なかなか強烈な皮肉が利いています。人間の、ただ生き延びるために食欲を満たすだけではない、命を食らうことに美味(快楽)を求めてしまう性(さが)へのカウンターパンチですね。


 オッドアイの女性(の目だけ)だの、双子だの、ヴィーガン(絶対菜食主義者)だの、食べる人間を選り好む月山にとって、「人間の香りがする喰種」はまさに垂涎モノだったのでしょう。実際、自然に生まれてくることが珍しい、ましてや後天的になることなど稀な半喰種は、一生に一度会えるかどうかの珍味中の珍味だと思います。カネキの香りを思い出して「ヴィーガンのもも肉のソテー」を拒絶したあとの月山は、ただひたすらカネキの肉への飢餓を募らせていきます。


 このあたり、前作の飢えに苦しんで涎を垂らしながら繁華街をうろつくカネキを重ねると、月山のスーハーも理解できるというか……まあ、変態にしか見えませんが!

 特定の人を食べたいと思う気持ちは理解できないけど、自身のなかに似た思いを探すと、恋愛感情だったというようなことを翔太さんがおっしゃっていましたが、月山がカネキに食欲を募らせていくさまは、本当に恋愛感情が深まっていく過程そのもの。戦闘で殺した相手を食べると、その勇敢な魂が自分に宿って強くなるという儀式的慣習や、究極の恋愛の成就は想う相手を食べてひとつになることという人肉嗜食など、“愛”が理由のカニバリズムがあることを思い出しました。

 

 選り好みできるだけの食材を前にしながら、カネキに飢える月山は、人間を食べることができず、自らの意思で飢えるカネキと対照します。
 「食べてないから(攻撃しても相手に与えるダメージが)軽い」「ようやく食べる気になったか」というトーカのセリフから窺える、人間を食べたいという本能に抵抗し続けているカネキ。見苦しくない程度に、ですが、痩けた頬やくぼんだ目の周り、関節が目立つ身体、透きとおるような青白い肌。もともと内向的で、テキパキ動くほうではないカネキですが、「また減量しましたね」な窪田さんのおかげで、精気どころか生気さえおぼろげな鈍い動作から、本作を貫く通奏低音のような飢餓を感じました。


 有り余る食材(人間)を弄ぶ余裕さえある、生気に満ちあふれた月山と、コーヒーカップのような軽いものさえ落としがちなほど衰弱しているカネキ。ふたりのおかげで、「食べる」という行為の悦楽と罪深さと……負担を考えさせられました。

 

●suspense(宙ぶらりん)

 さて、ラスト20分のバトルシーンは、食材の悲鳴を聞きながら、肉をやわらかくするのが“趣味”な月山(という提案をしてしまった松田さん)のおかげで、気分的には散々でした。松田さんのアイデアはそのとおりで、月山の変態的魅力は倍増だったのですが、カネキやトーカ贔屓の鑑賞者(私だ!)にはたまったものではありません。

 

 8月21日、新宿ピカデリーで開催された「川崎拓也・平牧和彦両監督ティーチイン」で、おふたりが「VFXを使ったバトルではなく、体術やコンビネーションを見せるバトルを目指した」「お気に入りのシーンはトーカが月山の赫子に貫かれて、持ち上げられ、血を吐くところ」と話されるのを聞いて、あのバトルシーンがしんどかった理由がわかった気がしました。きちんとバトルの手順やダメージを映して、喰種同士の戦いをリアルに描写しようとするあまりに、スピード感や絵面の変化が失われてしまったんですね。

 バトルの内容(特に月山がカネキを痛めつけていく段階)は違っても、絵面が同じなので、「何回、同じシーンを見せられるんだ」というしんどさを感じました。バトルシーンに改善の余地ありと評価されたらしい前作ですが、トーカVS真戸、カネキVS亜門のバトルは、本作ほどしんどくはなかったですからね。

 そこをスピーディーに畳めなかったから、月山の赫子がトーカを襲ったとき、自身の赫子で守ろうとしないカネキの倫理観に疑問を持っちゃったりするんですよ。

 

 たぶん、カネキは前作の亜門戦で血に狂喜して赫子を奮った喰種の自分を受け入れられなかったのでしょう。だから、月山にどんなに攻撃されても赫子を出さなかったのでしょう。腕や脚の骨を折られても断固として赫子を出さないカネキに、「身体は半喰種でも、自分は人間だ!」という、並々ならぬ意思を感じました。

 あと、あまりに飢えすぎて、赫子を出せるほどの体力もなかったのかな、とも思いました。あの場面で血を流していたのは喰種ばかりでしたから、カネキも亜門戦にときのように喰種の本能に飲み込まれることはなかったかな、と。

 それでも、キミが襲われそうになったときに赫子を出せたのですから、カネキの「人間を守る」という思いの強さは大したものです。

 

 あのバトルシーンでそこまでカネキの感情……前作と本作の間に培われた半喰種としてのカネキの思いを窺わせてしまう。それも、ひたすら受けの芝居、痛みの芝居に徹しながら。

 前作で、半喰種になってしまったことへの戸惑いや、人を食べなければ生きていけないことへの衝撃と葛藤、人の血肉に歓喜してしまう自身への忌避感を宿したうえで、まだ半喰種の自身を受け入れられないまま、でも人間ではないことは受け入れた、本作のカネキに漂う諦念と克己心。

 そのキャラクターがどれほどのモノ(感情だったり、思考だったり、希望だったり、絶望だったり)をどれほどの深度で肉体という入れ物の中に秘めているのか。窪田さんは、海に浮かぶ氷山の見えている部分と沈んでいる部分を表現するのが、本当に上手い! カネキは窪田さんにしかできない役だと、前作と本作を観て確信しました。

 

 そして、さらにそこからの……ですよね! 月山は強かったけれども、その月山を貫いた赫子の威力が、食欲を満たしたときのカネキの強さ=ポテンシャルを窺わせました。続編の「白カネキ」の描写への期待がいやが上にも高まります!

 

Part 2に続く

 

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