Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

連続テレビ小説『エール』第2週 Tweetまとめ

連続テレビ小説『エール』イメージ

 

<『エール』第6話 4月7日 Tweet

藤堂先生は挫折を知る人であったか。「俺は無いものを追ったんだ」という言葉に、才能を持つ人に対する複雑な思いが覗きました。でも、だからこそ、教師になって子どもたちに音楽を教え、子どもの才能を見つけて喜び、その開花を助けようとする。先生の懐の深さがわかった回でした。

 

父親に殴られる姿なんて同級生に見られたくなくて、逆上する鉄男の気持ち、よくわかります。でも、それを八つ当たりだったと認めて、「筋を通す」鉄男、カッコよすぎます! ケンカに強いだけではなく、この「筋を通す」あたりが、謹厳・質素で「歴戦の功将、人格高潔な武将」と言われ、明治天皇崩御の際に殉死した「乃木大将」のあだ名が付いた所以でしょうか。

ちなみに、乃木大将については、軍功や人となりが講談や詩に取り上げられ、伝記も出版され、「乃木将軍と辻占売り」という唱歌にもなったとのことで、当時の小学生があだ名に使うほど知られていたようです。

 

文字どおり雨降って地固まるで、一気に距離が縮まった裕一と鉄男。子ども時代に、きちんとドラマの山場があるのはすばらしいと思いました。

 鉄男の詩に裕一が曲をつけた「浮世小路行進曲」。小学5年生とは思えない洒落た曲名は、背伸びしたいお年頃でしょうか。この曲のイン/アウトのタイミングもいい。

 

この別れからの裕一(窪田正孝)と鉄男(中村蒼)の再会が楽しみです。山崎育三郎扮する久志が妖精ぶりを発揮するのかも気になります。

そう思えるのも、石田星空、込江大牙、山口太幹の子役たちが役を生きてくれたからですね。特に鉄男役の山口君の表情の変化が大変細やかで、ガキ大将で文学少年で詩人という多面的なキャラクターを見事に具現化していました。石田君の品のいい坊っちゃんぶりも、山口君の独特の力のヌケ感も本当によかった!

 

 

 <『エール』第7話 4月9日 Tweet

関内家の三姉妹を見ていると、『若草物語』を思い出します。吟はメグ、音はエイミー、梅はジョー。それぞれキャラクターが立っていていいですね。特に梅のツッコミが好きです。吟、音と音楽できたのに、三女だけ花の名前なのも謎。

音の部屋に鼓、琴に、当時は珍しかったであろう舶来のマンドリンがあるのが、両親そろって生粋の音楽一家!

 

双浦環が歌うのは、プッチーニ作曲のオペラ『ジャンニ・スキッキ』からスキッキの娘ラウレッタのアリア「私のお父さん(O mio babbino caro)」。安隆と音の父娘が、オペラのスキッキとラウレッタの雰囲気に似ていて、秀逸な選曲だと思いました。特に川俣の教会で音が歌いたいと安隆の手を引いた時の感じが……。

 

『ジャンニ・スキッキ』とはどういう作品かというと、西洋版「狐と狸の化かし合い」みたいな小品です。亡くなった富豪の財産分与をあてにして、結婚の約束をしたリヌッチョとラウレッタ。けれども遺言状には全財産を修道院に寄付するとあり、結婚資金のないリヌッチョはラウレッタと結婚できないことに。ラウレッタは、法律に詳しく、頭の回転が速い父に助けを求めます。

「私のお父さん」はそのとき歌われるアリアで、「お父さん、彼を助けて。彼と結婚できないなら、私、川に身を投げるわ」という内容。スキッキがたじたじとなるのが面白いシーンです。『エール』でポイントポイントに流れる曲は意味ありげなので、さて、これも何かの暗示になっているのでしょうか。

 

 <『エール』第8話 4月9日 Tweet

環が音に渡したレコードは、プッチーニ作曲の『蝶々夫人』のアリア「ある晴れた日に」。双浦環のモデルである三浦環は蝶々さん役で有名な方だったそうなので、「なるほど」です。

この年齢で「こうなりたい」という具体的な理想像を得た音がちょっとうらやましい。あとは、ただひたすら目指すだけだもの。

 

この時代に夫と差し向かいで晩酌をするのみならず、手酌で酒を飲むとは。光子さん、思った以上に進歩的だわ。子どもたちのアカペラでワルツを踊っちゃう夫婦、いいですね。こういうときに、サラッとチャイコフスキーくるみ割り人形』の「花のワルツ」が出てくるところが、音楽一家だなあと思います。

 どこまでも進歩的で欧風で、夫唱婦随の純和風な老舗呉服店・喜多一とは対照的。全く違う家風の、唯一の共通点が音楽が流れる家というのが面白いです。

あえてもうひとつ共通点を言えば、古山家は両親が、関内家は姉妹が、襖や戸の隙間から様子をうかがうことですね(笑)。わりと露骨に覗かれているのに、全く気づかない裕一と、普通に気づく音の差もおかしいです。

 

さて、もたらされた不穏な知らせは『かぐや姫』に影響するのかな。気になるところで、続く!

 

 <『エール』第9話 4月12日>

やはり関内家サイドの物語は『若草物語』であったか。父親不在の理由は違えど、経済的危機を、やさしく、しかし凛とした母と、それぞれが持たないものをそれぞれが補い合うような娘たちが知恵や特技を出し合って乗り越えていくさまは同じです。

 

「やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいい」。安隆の、この時代には当たり前だった亭主関白ではなく、妻や娘に自由な振る舞いをむしろ推奨する、先進的で西洋的な考え方と愛情深さ、この先、音の指針となるであろう座右の銘が丁寧に丁寧に描かれるのでイヤな予感がしていましたが……。


個人的に光石研が好きなので、もっとこの方の安隆を見たかったなあ。ここでお別れなのは残念です。

 

双浦環が、教会でなぜ十八番の「ある晴れた日に」ではなく「私のお父さん」を歌ったのか不思議だったのですが(「ある晴れた日に」を歌ったほうが、レコードを渡す理由もストレートになる)、今後、音が「お父さんがいてくれたら」と思うようなことに出会うたびに、環の歌う「私のお父さん」(O mio babbino caroああ、私の大好きなお父さん)を思い出すのだとしたら、これまた「なるほど」な選曲。

 

夫を失ったとたん、光子に封建社会(男社会)の女を対等と認めない男の偏見といやらしい下心が襲ってきます。

薬師丸ひろ子の「かなりまず…い↑」の言い方が、娘に心配をかけたくない、自分でも明るくいたい、でもどうしようもなくてくずおれそうという、複雑な心境を端的に表していて、感嘆しました。

 

古山家サイドも関内家サイドも子役が本当に上手だなあと感心するのですが、特に関内家の姉妹は、光石さんや薬師丸さんに上手いこと引っ張られてますね。

親を失った悲しみの表現なんて、子どもたちにはなかなか難しいと思います。でも、薬師丸さんの表情や声のトーンで、素で泣かされてしまうから、あとはそこにセリフを乗せるだけでいい。

光石さんも薬師丸さんも、自分たちの役を生きる芝居に子役たちの気持ちを巻き込んでしまうから、彼女たちも自然に自由に演じられたのではないかと思います。ベテランの役者はかくあるべき、と感じつつ。

 

 <『エール』第10話 4月12日>

「怒りって必要よ」。音が元気になった理由は、自分を「女子ども」と見下していた職人頭の岩城が、安隆が亡くなるや逃げ出した怒りから。

いや、ホント「怒りはパワー」です。たぶん喜怒哀楽の中で一番パワーに変換しやすい感情です。ここで、ようやく音に親近感が湧きました。

 

吟に、家を守るために男になれと迫る音と梅。しかし「ときどき鋭い」吟に反撃されてしまいます。「歌手や作家になるより、お嫁さんになるほうがよっぽど確率高いから。私のほうが明確じゃない?」。ぐうの音も出ない音と梅が面白い。

そして、梅はいくつよ!? 私、「甲が」「乙が」などと書いてある文書(契約書とか定款とか)を見ると、頭が痛くなるか眠くなる呪いがかかっているので、「梅ちゃん、すごい!」の心境です。契約書のペナルティ事項を思い出す吟もただ者ではない!

 

姉妹に後押しされた“黒光”の反撃も胸すくものでしたね。打越の背景に「ぎゃふん」という文字が浮かんでみえました。

まあ、朝ドラという番組の性質上、まだプロローグの段階で視聴者をモヤモヤさせたまま次週に持ち越さないだろうと思いましたが(そして、スッキリできてよかったのですが)、展開が早いなあという感覚は否めません。やはり土曜日の1話分がないと、物足りない気がします。

殊に関内家はたった4話分(1時間)でしたからね。光石さん、薬師丸さんと子役たち、それに平田満、吉原光夫、宇野祥平(熊谷先生)と渋い役者が揃い踏みで、とても1話15分とは思えないドラマを見せてくれましたが、それでも足りない。「尺」の大切さを痛感しました。

古関金子が古関裕而と知り合ったのが、彼女が小学5年生の時に学芸会で「かぐや姫」を演じたことで、裕而さん作曲の『竹取物語』が日本人で初めて海外のコンクールに入賞したと報じた新聞記事を見て、楽譜がほしいと手紙を送ったというきっかけ。
音がかぐや姫を演じなければ、ふたりの出逢いはなかったかもな大事なファクターなので、音が演じることになるんだろうなとは思っていましたが……。ちょっと展開がベタすぎましたよ(苦笑)。「自分の役割に誠実であれ」「目の前のことに全力を尽くしなさい」というお父さんや環さんの教えが、ふわんと宙に浮いちゃうぞ。

まあ、落としどころは、音が誠実にお爺さんその2に向き合うために、『竹取物語』を読み込んで、すべてのセリフを覚えるくらい全力を尽くしたからこそ、譲られたし、皆の賛同も得られたってことなんだろうけど。

 

あと、未だにこの時代の「教会」の役割が謎。確かに、イースターのような特別な日も含めて、月に一度くらい、日曜礼拝が終わったあとで、信徒が楽器を持ってきて演奏したり、歌を歌ったり、手作りのお菓子を配ったり、ということはあったけれど。礼拝や冠婚葬祭以外で聖堂を開放したり、礼拝以外で賛美歌を披露するということはなかった気がします。
キリスト教考証の方がスタッフに加われているので、この時代、あるいは地方によってはあったのかもしれませんけどね。

 

さて、最後にちらっと窪田正孝演じる裕一がちらっと。授業中に作曲してるわ、留年してるわ(笑)。商業学校4年生を留年ということは、18歳かな。なかなか詰め襟がお似合いで。
次回から窪田さんがどのような“古山裕一”を見せてくれるか、楽しみです!