Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

連続テレビ小説『エール』第3週

連続テレビ小説『エール』イメージ

 

<『エール』第11話 4月14日>

大正15年ということは、裕一は17歳ですね。現在なら高校2年生で、バケツを持って立たされているあたり、時代を感じます。

 

裕一の吃音にもなまりにも、子ども時代を演じた石田星空の面影が残っていていいですね。星空君は(もちろん演出関係のスタッフも)窪田正孝を意識して裕一の子ども時代を演じていたと思いますが、窪田さんも星空君の演技を守ってくれたのが、見ていて自然に感じる交代で、気持ちもよかったです。

 

いじめっ子二人組のひとりだった史郎君が、精鋭の集う「福島ハーモニカ倶楽部」にいるのにまず驚き、留年したため一学年下になったはずの裕一を侮りもせず、頼みごとをしたり、レコードを一緒に聞こうと言う姿にさらに驚きました。小学生の頃の関係性って、歳を重ねても残りがちなので。

史郎は単に太郎に引きずられて、裕一をいじめていただけだったのかもしれませんね。

館林会長と裕一の密談を盗み聞きする史郎ですが、バレバレですやん(笑)。それでも気づかない裕一は、子どもの頃から変わらず鈍感さんか!

 

史郎が裕一と聞こうとしたレコードはモーツァルトのオペラ『魔笛 Die Zauberflöte』。パパゲーノのアリアや、世界でも数人しか歌えないという、コロラトゥーラ・ソプラノの難曲「夜の女王のアリア」など、裕一が聴いたらどれほど感動することでしょう。

館林会長も『魔笛』のレコードで騒いでいた裕一たちを見ていたので、モーツァルトの名前を出したのかもしれませんね。

 

弟君(浩二)は、幼少期の「お父さんもお母さんもお兄ちゃんばっかりかわいがる」をいい感じにこじらせていました。両親には兄のことをクソミソに言うのに、兄を目の前にすると強く出られないところが、否定できない裕一の才能を浩二も感じていて、よけいにコンプレックスになっているのかな、と。

浩二が存在を認めてほしい相手は、両親ではなく裕一なんでしょうね。でも、音楽家になりたいと邁進中の裕一は、幼い頃の母の愛を弟に取られたという思いもあり、弟のことは両親に任せておけばいいとアウトオブ眼中状態なので、浩二の“片思い”になちゃってます。この関係が、裕一と実家の関係に陰影をつけてくるのでしょう。

佐久本宝と窪田さんのやり取りが(襖の閉め方も含めて)、兄に対する弟、弟に対する兄の思いの見事なすれ違いを見せていて、これからが楽しみです。

 

権藤源蔵が森山周一郎と今さら知って、びっくり! あまりご無理をなさらずと思いつつ、あの渋い声をお聞きできてうれしいです。周一郎さんと風間杜夫のツーショットというのも、豪華ですね。

その源蔵の圧力で、茂兵衛が古山家に直接出向いて養子の話を出してきました。というか、何年越しの話になってるんだ……。まさの「私は古山家の人間です」という言葉は、子どもを手放すくらいなら、実家と縁を切るという決意の表れなのでしょう。


関内家も古山家も、当時では突拍子もなかった子どもの夢を認めてくれる親なんですよね。この時代で、歌手だの作曲家だのになろうとする夢について、親子の葛藤がないというのも、珍しいドラマだなと思っています。

その分の“揺り返し”が、この権藤家とずっとくすぶっている養子話になってくるのでしょうか。

 

『特捜9』の売れっ子漫画家の夫で、警視庁特捜班の刑事、青柳警部補の女房役という田口浩正が、“黒田口”のわっるい顔を見せてきました。丸顔の人が金の話をするときは、だいたい狸が潜んでいるから、気をつけなさいって、あれほど……。

 

<『エール』第12話 4月18日>

史郎はいいヤツだなあ。「僕らのこといやがりはすっけど、恨んだりはしなかっただろ」って、裕一のこと、よく見ている。前話で史郎が留年した裕一を蔑んだり、からかったりすることなく、対等につき合っているのが不思議でした。でも、太郎と別れてひとり商業学校に入学して、同じ学校出身ということで裕一に話しかけてみたら、避けられることもなく、なんとなくつるむようになったということでしょうか。

『エール』の脚本は、エピソードにちょっと違和感のあるところを置いて、次の話でその説明をするという、かがり縫いみたいな構造をしているなと思います。

 

放課後に当時では珍しかった喫茶店に寄り、裕一はコーヒーだけですが、史郎はシベリアをおかわりしているところを見ると、わりと裕福な商家の子どもだったようです。

 

館林会長の「君は本気で音楽家になるつもりだったの?」という“呪いの言葉”に、負けるものかと闘争心を燃やす裕一。でも、音楽はそういうものじゃない、「音楽はその人の個性が出るものだろ」という史郎の言葉に我に返ります。会長と裕一の曲の投票の時もそうでしたが、こんなに心底、裕一のことを心配し、一喜一憂してくれるなんて……。
「福島三羽ガラス」に引けを取らない、いい友人ではないですか! 東京編で、福島の頼もしい味方として再登場をお待ちしております。

 

史郎に「試しに僕の顔、浮かべてみてよ」と言われて、見る裕一の顔芸が! 相変わらず窪田さんの表情筋はよく動くなあ(笑)。

 

自作の楽譜に「ユウイチフスキー」と書いたのは、祐一のモデルである古関裕而が福島ハーモニカソサエティーに入団した頃、ロシア音楽に出会って、ニコライ・リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』やイーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』などにハマったからですね。

 

福島ハーモニカ倶楽部のOBの票を集めてくるとは、さすが館林会長のカリスマ性。そして、館林会長のこともよく見ている史郎。彼の解説のおかげで、館林会長も音楽に誠実な人と知れます。
音楽に関わり、作曲や演奏や歌唱や作詞などで音を創り出す人に嫌味の残る人がひとりもいないところが、『エール』の方向性なのかなと密かに感じています。今後、プロデューサーとか興行主とかが出てきたら、また変わってくるのかもしれませんが……。

さて、順風満帆に見える裕一の音楽生活ですが、好事魔多し。詐欺に引っかかった三郎は、多額の負債を抱えてしまいます。妻の実家・権藤家に頼りますが、交換条件は古山の兄弟のうち、ひとりを養子に出すこと。

 

茂兵衛の「傑作だ。この前は俺が頭下げて、今度は君が頭を下げる」というセリフ。視聴者が思うであろうところをドラマの中で言っちゃうのが、風間杜夫という役者に合っているな、と。風間さんには、ドラマを飛び越えて、メタ的なというか、客席や茶の間からヤジ(ツッコミ)を飛ばすような、それでいてドラマの枠に収まるような、境界を曖昧にする力を感じます。

いずれ窪田さんにもそういう役者になってほしいなと、個人的に思っています。

 

<『エール』第13話 4月19日>

アヴァンの10秒で裕一の様子がおかしいと気にする史郎。いや、ほんと、どこまで人のことを見ているかな。
館林会長に「裕一が変です」と告げるも「いつも変だよ」と返され、その言葉に他のメンバーもうなずきます。福島ハーモニカ倶楽部の裕一に対する認識は「変人」なのか。「いつもの変とは違う、変なんです」って史郎もフォローしないし(笑)。

 

裕一と古山家や権藤家の人々と鉄男には言葉に“遊び”がないのですが、サブ的な人々は関内家も含めて言葉や掛け合いに遊びがあって、ドラマの主流が悲劇でも、背景的な芝居は軽やかなので、重くならない。このあたりに、私は民放のドラマっぽさを感じます。重い話に暗い気分になっても、視聴している15分の間のことで、後を引かせないというか。

最近は重くて後味の悪いドラマをあんまり視聴したくないので、それはそれでいいと思うのですが、たとえば関内家の父の死や、音がお爺さんその2を演じる決意をしたのに、かぐや姫を演じることになったときの心境、そして権藤家に養子に入る形で古山家から離れなければならなくなり、音楽の道も閉ざされた裕一の気持ちなどは、もう一歩踏み込まなければいけない、余韻を引かなければならないところではないか、と感じます。

 

そもそも、この時代に家長(父親)の重大な話を、正座して聞かない息子がいるのか、と。座布団を外して、正座で聞かないんかい!

関内家の自由闊達さは、戦場で人々の死を見て、命の儚さを知り、キリスト教の信仰を通じて西洋のレディファーストなどの気風を知る安隆と、大正デモクラシーの中で進歩的な考え方を培った光子の考え方のせいと納得はできます。
でも、古山家は福島から一歩も出たことのない100年続く老舗呉服店ですよ。それも東京・横濱ではなく、福島。第二次世界大戦前の「教育勅語」の時代ですよ。父親が養子に行けと言えば、それは絶対で、どんなに不本意だろうと口ごたえなど許されなかった時代です。

 

この「親、教師、そして天皇および国家に逆らってはならない」という時代性を描いておかないと、「なぜ戦時歌謡や軍歌を作ることになったのか」の部分が軽佻浮薄なものになりはしないか。それが軽くなってしまったら、戦後の「長崎の鐘」などへの思い入れもまた軽くなってしまいはしないか。

……杞憂であるよう祈っておきます。

 

とはいえ、自室に戻ってからの窪田さんの泣きは、拒否できないやるせなさ、音楽を諦めなければならないことへの悔しさが極まって、内から外に出せないから涙もこぼれないという、すさまじい演技になっていました。「かなしさは疾走する。涙は追いつけない。」(『モオツァルト』小林秀雄)とは、この心境か。

運動会でころんだり、いじめられたりしていた子ども時代を振り返っても、裕一が涙を流したのは、消えた鉄男を想って、ふたり合作の「浮世小路行進曲」を歌ったときだけですよね。

弱々しく見えても、涙を流すのは友人との別れだけ。自分のことでは涙は流さない、窪田さんが創った裕一とは、そういう人なのかなと思いました。

 

史郎の引っかかりで視聴者に「何があった?」と思わせてからの、裕一と三郎の会話に時間を戻す方法は、面白いと思いました。第13話は福島における裕一の音楽活動のクライマックスであり、終章として印象深いものになりました。

 

演奏会の最初の曲はヨハン・シュトラウス2世作曲の「皇帝円舞曲」。

OP後の曲はビゼー作曲のオペラ『カルメン』から「闘牛士の行進」。ドン・ホセがカルメンに復縁を迫るが、闘牛士の花形であるとどめ役(エスパダ)エスカミーリョに気移りしているカルメンにすげなく拒絶されるというシーンの曲です。また意味深な選曲ですね。

 

ラストは、裕一作曲の「思い出の徑」。まさかフルで聞けると思わなかったので、感動しました。西洋音階と和音階の折衷に哀愁のマイナー。「浮世小路行進曲」といい、「道」が好きですね。思わず、東山魁夷の「道」を思い出しました。

養子に行けと言われた時のこと、そのときの気持ちを思い出しながらタクトを振る姿は、痛々しさもありながら、凛として、「これが最後」という迫力に満ちていました。立ち姿が美しいのと、指が長いから、指揮者姿が似合いますね、窪田さん。これからちょいちょい見られるかと思うと、うれしいです!

 

三郎の涙は、自分の過ちで「天才音楽家となるはずだった息子」を殺してしまった悔恨からだと思いたい。

そして、藤堂先生が駆けつけてくれたのもうれしい。家族に、藤堂先生、館林会長、史郎と、裕一の音楽活動をこれまで見守ってくれていたすべての人に、感謝の思いのこもった曲を聞いてもらう。すばらしい「福島・古山家編」有終の美となりました。

 

何気に喜多一の番頭さんから手代までそろって、裕一を見送ってくれたのがうれしい。いつものように「行ってらっしゃい」と言いかけた番頭さんが、「坊っちゃん、風邪引かねえようにね」と泣きそうな顔。使用人たちにとって、裕一は主人一家の一員だけど、自分たちの家族でもあったんだろうな、と感じられて、印象的でした。

 

さて、裕一の部屋へ断りもなく上がってきた川俣銀行の面々のおかげで、消沈した空気が一掃されました。頭取をはじめ、またクセの強そうな人がそろってますね。

古関裕而は川俣銀行に勤めながら、作曲に励んでいたというエピソードがあるくらいなので、昔の地方銀行は緩かったのかもしれませんね。