Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

奈良旅行:奈良市内編

 本日、曇天。車窓から見る路上は、朝方、雨が降ったっぽい。どうも私と相方が揃うと、空のご機嫌は悪くなるらしい……。
 JR明石駅発7:49の新快速で大阪駅へ。梅田駅から地下鉄御堂筋線に乗り、なんば駅近鉄奈良線に乗り換え。奈良に着いたのは9:40ごろでした。


<なら奈良館>
 近鉄奈良駅の駅ビルに「なら世界遺産ひろば&ガイド なら奈良館」ができたというので、寄ることに。目的は、東大寺の大仏の左手のレプリカ。実物大で、手のひらに乗ることもできるとかで、座ってみようということになったのです。
 まだ朝早いからか、日曜日だというのに館内は閑散。受付のおじさんが歓待してくださいました(笑)。入場料300円也。


 第1フロアでは、世界遺産としての奈良を写真付きパネルとビデオで紹介。「資料パネルにしては、写真がすばらしいな」と思ったら、「やはり入江泰吉でしたか!」といった思いがけない感動もありつつ。大判で見ると、迫力倍増です。でも書かれている内容は、私には過去の仕事で承知のことなので、ひととおり(写真を)見て次のフロアへ。


 「平城京と建築様式のすべて」のフロアで驚いたのは、精巧な模型で薬師寺西塔の内部の構造がわかったり、伽藍や塔などの建築のありさまが木組みを用いて説明されていること。
 また、当時の男女の服装(生地はけっこう薄地でゴワゴワ)や、貴族と庶民の献立もロウ細工で再現されていました。貴族階級はさすがに豪華メニュー。魚や鴨肉料理をはじめ、ずらりと並んだ総菜に、果物、中国の菓子、蘇(古代のチーズ)など、今、会席料理として出されても美味しくいただけそうという、手のこんだものばかり。対して庶民は、ヒエやアワのご飯に、なにかの汁物に、小皿に盛られた塩。「うちらのご先祖さまはこっちやな」と、ふたり同時に指差す庶民の献立。「悠久の歴史」も、こんな思いを馳せては、ロマン台無し!?(笑)
 大仏さまの手があるのも、このフロア。ふたりで座りましたが、大人10人は余裕で座れそうです。東大寺の柱もありましたよ。実物と同じく、くぐれるように穴が空いていて、通る人を誘っているのですが、これもふたり一致で止めました。こんなところで、「くまのプーさん」になるのもちょっとね。


 次は仏像についてのフロアで、中央に新薬師寺十二神将の精巧なレプリカが置かれています。新薬師寺奈良市街からは確かにちょっと離れているので、興福寺東大寺春日大社とならまち観光を楽しみたい観光客には、レプリカでもこれがここにあるのは親切かもしれません。少なくとも、どういうものかとか、大きさはわかりますから。
 そして、自分たちの干支の神将を探して、像を一周する私たち。ええ、逆周りに歩いていたら、すぐ見つかりましたよね。
 相方殿は、私がトイレに行っている間、パネルの説明を見ながら、仏像の印相を真似してみたそうですよ。お願いですから、指がつりそうになるまでやらないでください……。
 「印相」については、こちらを参考にどうぞ。


 最後のフロアには、世界各地の世界遺産のパネル紹介と、江戸時代の奈良町の模型が展示されていました。最近、観光地として「ならまち」「ならまち」と言われるものの、実際に町を歩いても、そんなに景観に特徴があるわけではありません。住宅街のなかにぽつんぽつんと町屋が残っていて、そのなかに見学できたり、お茶や食事ができたり、店舗になっているものがあり、中に入って構造を見ることができるというくらいで。
 なので、模型を見てはじめて、「まらまち」の全貌や特異性がわかりました。本当に京都の町屋にそっくりな「うなぎの寝床」。狭い間口に、深い奥行き。その奥行きに、店、坪庭、母屋、倉が巧みに配置されています。
 間口の狭さは税金対策だそうですが、オランダのアムステルダムの町並みも税金対策から生まれたもの。また、くっつきあった隣りの目が気にならないよう、うまく生活が見えないように工夫もされています。そのあたりは、英国の市街地の庭付き建て売り住宅の工夫とも通じるような。


 立ち止まって「ならまち」の模型を眺めていると、ボランティアガイドのおじさんが「お時間よろしいですか?」と言いながら、説明してくださいました。特に、平城京の大伽藍・元興寺が町家に浸食されていった経緯が興味深かったです。もちろん、元興寺と奈良町の関係は知っていましたが、模型で全体を俯瞰してみると、それは見事なほどの浸食されっぷり(笑)。都が京都に移されたあとの「南都」、すなわち平城京の衰退のもようもうかがえました。
 ほかにも「平城京は映画のセットのような都だった」など、おもしろいエピソードも話してくださったボランティアガイドさん。「定年退職後の夫婦円満のために、こうしてガイドをやってるんです」とおっしゃっていました。
 この館内の案内だけでなく、申し込めば、奈良公園周辺やならまち、高畑、佐保・佐紀路など、コースを設けてガイドしてくださるそうです。奈良が初めてで、歴史に興味のある方は、お願いしてみてはどうでしょう。
 なら・観光ボランティアガイドの会「朱雀」のサイトはこちら


 見学を終えて出るころには、どうやら学年ぐるみでやってきた小学生がここにも、あそこにも。夏休み限定で小学生向けのクイズラリーが行なわれているのでした。いやいや、ここを一周すれば、けっこう奈良通になれると思いますよ。

 と、案外に時間をくってしまった「なら奈良館」。博物館・資料館は、どんな小さなものでもバカにしてはいけないの法則。




奈良ホテルで昼餉>
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写真はすべて画像クリックで大きくなります。

 東向通りの商店街から三条通りに曲がり、猿沢池へ。そこから興福寺への階段を上がり、奈良公園春日大社一の鳥居へ。鳥居横手の階段を上がって小道を行けば、「江戸三」の母屋に着くわけですが。この母屋がわからず、周囲をぐるりと探しまわりました。素直にまっすぐ行ってりゃよかったんですね orz。
 ちょうど小道の掃き掃除をしていた仲居さんらしき女性に聞けば、母屋もわかり、荷物も預けることができました。
 この時点で11:10。「江戸三」から「奈良ホテル」は近距離。しかし「東大寺」などの観光を挟むと、「奈良ホテル」はわりと遠距離になります。そこで、ちょっと早いけれど、「奈良ホテルで茶粥の昼食」を実行することに。


 でもね、ホテルに着いたら、昼食は11:30からだったうえに、レストランが2つあって、どちらで「茶粥」が食べられるのか、不明。そのうえ、ちょうど結婚式と重なって、ロビーは紋付きやドレスに着飾った人だらけ。そこに紛れ込むのも気が引けて、結局、10分ほど館内をウロウロして時間をつぶし、日本料理の「花菊」に入りました。
 レセプショニストに「ここで茶粥食べられますか?」と聞けば、「茶粥は小懐石につくご飯ものとなっておりまして、小懐石をご注文いただいて茶粥をご指定いただければ、それが茶粥懐石となります」とのことだったので、それを注文。
 ビールは銘柄指定ができ、瓶ビールには女性が上品に飲めるサイズのグラスが添えられてきました(しょせん、私たちふたりなら、上品にはほど遠い「手酌で好きに飲もう」になっちゃうのですが)。


 お料理も一品一品、食べ終えたころ合いを見計らって持って来てくれるので、熱いものは熱く、冷たいものは冷たくいただけました。どの料理も趣向が凝らされていて、滋味満点で美味しかったです。茶粥もほうじ茶の茶粥で、香ばしくてうまうま(でもデザートだけが、ちょっとズれてたのよねえ。ブドウ半粒入りヨーグルトの味がそこまでの懐石の味と合ってなくて、惜しい! 私と相方はコース料理のデザートに恵まれない法則発動(苦笑))。
 ほろほろしゃべりながら食べていても、急かされることがないのもうれしかったです。空のグラスに気づけば、ついでくださったり。隣りや後ろの会話が聞こえない、絶妙な空間の取り方もなかなか。老舗ホテルのレストランならではの心遣いが、料理の味を引き立て、すっかりまったり憩えました。
 天皇家御用達の、奈良では格式高いホテルですが、子ども連れOK、スニーカーOKな気さくなところもよろしいかと。


 食後は、本館に戻り、 1909(明治42)年創業の桃山御殿檜造りの内部を見て歩きました。この本館は、東京駅を手がけた辰野金吾が設計したもの。言われてみれば、階段の雰囲気や窓の取り方が似ている感じ。
 階段の踊り場や、廊下の突き当たりの壁にかけられた絵画や、細かく行き届いた窓や天井の細工、奈良っぽいシャンデリア、なぜか鳥居が囲む暖炉などなどを鑑賞しました。……客室には入ってませんよ。


 ところで、私信! やっぱり「茶粥」は「花菊」で正解でした。私が食べた「三笠」の「茶粥定食」は、宿泊客向けの朝食でした orz。ああ、そういえば、あのときは泊まったんだった。紛らわしいことを言って、ごめんよー。


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元興寺 極楽坊>
 「奈良ホテル」まで来たら、「ならまち」はすぐ下です。ホテルから「ならまち」への近道があったので、ついつい行ってしまいました「元興寺」。本当は「東大寺」に行くはずだったのですが、なぜか反対方向へ。やはり「なら奈良館」のガイドさんのお話が印象的すぎたか。
 以前に「ならまち」を旅したとき、「元興寺」に行き着いたら、閉門時間の16:30を過ぎていて拝観できなかったのです。心を残しながら門前を去り、傷心を癒すために酒蔵の「きき酒」に行ってしまったことは、とりあえず公然の建前です(笑)。
 さて、その「元興寺」。400円を払って入ろうとしたら、受付のおじさんに「こちらのお参りははじめてですか?」と声をかけられました。「そうですが」と言うと、「では、このお寺について説明させてもらいます」と起源や歴史を話してくださいました。聞くうちに、「ああ、そうそう。ここは智光というお坊さんが、夢に出て来た極楽のようすを描いた曼荼羅で有名だったんだ」といろいろ思い出してきました。


 蘇我馬子が596年に飛鳥に建立した、日本最古の仏教寺院・法興寺元興寺飛鳥寺)を、平城京遷都とともに移転させたのが「元興寺」。ちなみに「法興」も「元興」も、「日本で最初に仏法が興隆した寺院」を意味しています。
 当時は奈良町一帯に伽藍が広がる巨大な寺院でしたが、現在は極楽坊本堂と禅室が残るのみ。往事の隆盛がいかほどのものだったのか、狭い境内からは想像もできません。
 そんな由緒正しき寺院は、佇まいも簡素で端正。極楽坊の屋根には、718年の創建当時の瓦が残っています。この瓦は、日本で最初に焼かれた瓦だそう。おじさんの話のとおり、それまで日本の屋根は木造か茅葺きや藁葺きが普通で(神社は檜皮葺です、確かに)、外国から仏教が伝来してから、寺院の造り方、そして屋根瓦の造り方も伝わって来たのですね。また、瓦の葺き方も「行基葺き」という特殊なもの。眺めていると、つい惹き込まれる波なみとした円筒の連なり。時代ごとの色合いがパズルのようにも見え、なんとも美しい。


 密教曼荼羅図とはほど遠い、夢の極楽世界を描いた「智光曼荼羅」もようやく拝観することができました。実は極楽坊のご本尊は仏像ではなく、この曼荼羅図なのです。
 智光はお坊さん。絵は素人の方のはずが、細緻な筆づかいと豊かな色彩で描かれた「智光曼荼羅」は、そのすばらしさを民衆が崇め、本尊と祀られるまでに。そこまで人を惹きつける画力は、やはり才能なのか、それとも信心のなせる業か。しばし見とれてしまいました。


 「なら奈良館」のガイドさんは、奈良の古い寺院のほとんどは、拝むのに靴を脱ぐ必要がないと教えてくれました。東大寺薬師寺・新薬師寺などなど、たしかに土足のままで、仏さまに近づけます。
 奈良時代の仏教は顕教で、仏像は、出家していない庶民でも拝むことができるよう安置されました。奈良の寺院では、仏像は、仏堂に入ればもちろん、仏堂の開いた扉や窓からでも、拝観することができます。
 ところが、平安時代になって密教が盛んになると、密教では重要な仏像は秘仏として厨子内に納めたため、庶民が仏像を見ながら拝むことは難しくなりました。
 奈良の寺院がおおらかに感じられるのは、そこかと思い至りました。有名な寺院では拝観料が必要ですし、靴を脱いで上がるところも多いですが、堂内に入れば、仏さまが見たいと思ったお姿のままで迎えてくださる。もったいぶるように、厨子の奥の奥にいらっしゃる仏さまは少ないんですね。


 また、ガイドさんは「本堂」を「金堂」という風習について、金色の仏像が安置されているところから、そう呼ばれるようになったと言われていました。
 「元興寺」のおじさんは、奈良の寺院は、人びとが集まって仏さまを拝むところというより、外国から伝来した仏教を研究する学校の意味合いが強かったから、仏さまを安置した堂も、寺の中心の「本堂」というより、仏さまという宝物がある堂として「金堂」と呼んだ、というようなことをおっしゃっていました。むしろ「講堂」が、お寺の中心だったということでしょうか。
 人からお話を聞くというのは、なかなか勉強になります。


 「元興寺」は、現在の本尊が「庶民の信仰を集めた絵」であるところから推察できるように、南都七寺のなかでも崩壊が激しかった寺院です。
 平安後期、荘園や寺領からの収入が減り、天台や真言といった新しい宗派が興隆し、官寺は衰退します。特に町中にあった「元興寺」は、権勢の衰退とともに、境内に庶民の家が次々に建ち、伽藍は分断され、消えていきました。その代わり、庶民の信仰心が寺の命をつなぐことになります。
 おかげで、今残る極楽坊には浄土信仰の中心となった「智光曼荼羅」が祀られ、境内には聖徳太子信仰の名残りである聖徳太子孝養像や、弘法大師真言信仰を伝える弘法大師坐像、地蔵信仰を伝える地蔵像などが並列しています。私たちが訪れたときは、「地蔵盆」の精霊灯籠が門前に並べられていました。
 いわば「元興寺」は、庶民の仏教系の信仰がすべて集まった、おそらく日本でも稀な「庶民仏教」の集積地なのです。


 と、ウンチク語りを披露したところで、境内にあった蓮の花の鉢植えに驚いたり。だって、水生植物は池とか堀とか、大きい水溜まりに生えているものじゃないですか。水を張った50センチくらいの陶器の鉢から蓮が伸びて、花を咲かせているなんて、かなりシュールな光景でした。


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<車道の牡鹿道中>
 「元興寺」から奈良公園へ戻る途中、車道のど真ん中を歩く鹿に出会いました。角を振り立て、堂々と脚を運ぶ牡鹿4頭。見たところ、父親と年が違う兄弟、あるいは伯父か叔父といった、ファミリーっぽい大小あり。
 なにせ歩いているところがところですから、鹿の後ろには車の列が……。タクシーの運転手さんが道ばたに車を止めて、餌で鹿たちを道路脇へ寄せたり。旅館の前で立ち止まり、旅館の駐車場から出ようとするお客さんの車を邪魔するので、見送りに出ていた仲居さんらしき女性が交通整理の手振りで鹿たちを進ませたり。まさに奈良ならではの「鹿様のお通り」。


 ひとしきり面白く眺めて歩きだしながら、ふと相方のほうを見ると、彼女の車道側の肩から鹿の頭がにょっきり生えている! 思わず「うわっ!」と声を出すと、彼女も気づいて立ち止まったところが、4頭の牡鹿のど真ん中!
 「ああ、ごめん。立ち止まらんと、進んで、進んで」と言う声のほうを見れば、私たちのすぐ後ろを、うどん玉がいっぱい入ったボウルをもったおじさんが歩いています。足早に歩く私たちの後ろを、やっぱり歩いてくるおじさん。ついてくる鹿。
 猿沢池まで来たとき、おじさんは私たちの後ろからそれて小さな空き地に入り、ボウルの中身を地面にぶちまけました。鹿たちがすかさず、うどん玉に首を伸ばします。
 「鹿って、うどん食べるん?」「さあ。でも食べてるみたいよ」「あの舌で、つるつるするうどん、口まで運べるんかいな」「どうやろ」。……いや、傍で見る牡鹿はでかかったです。


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奈良国立博物館
 さて、では「東大寺」といきたいところが、大仏殿までの距離を歩くのがつらくなった私の提案で「奈良国立博物館」へ。奈良市街は、春日大社方面に向かって上り坂になっている坂の町なので、平坦な町を歩くよりも疲れるのです。
 「奈良国立博物館」は、日本で唯一の仏教美術専門の国立博物館。入館料は本館・新館共通で500円と、とっても良心的。さすが国立! 興福寺の国宝館は3度も見学しているのに、博物館は今回が初めてな私。秋の「正倉院展」の時期になるたびに「行こう、行こう」と思いつつ、結局、訪れる機会がなかったのでした。


 入ってみて驚いたのは、別に「正倉院展」でなくても、国宝・重文クラスの一級品を目にすることができること。さすが、奈良。すべてが歴史的な名品ぞろいです。
 だって、説明文の制作年代がことごとく奈良時代・藤原時代(平安後期)・鎌倉時代ですぜ。京都だって、奈良時代の仏像など、奈良ほどにはないはずですからね。
 ただ、名品ぞろいとはわかるんですけど。見ているだけで、眼福なんですけど。「あ、これは教科書で見たぞ」という、「実物はこれか!」な感動もあったんですけど。
 ……眠い。どうも前日の新幹線移動の疲れが出てきたらしく、眠くて眠くて、歩きながら寝ているようなありさま。脚もガクガクで、イスが置いてあるところすべて、休み倒しました。よって、「奈良国立博物館」の各所に配置されているイスの座り心地は、私がす・べ・て把握しております(<なにしに行ったんだ orz)。


 印象的だったのは、室生寺からの木造十二神将立像の「未」(記憶がはっきりしないのですが、「辰」のほうではなかった、と)。神将像としては珍しく、頬に手を当てて考えごとをしているような、穏やかなお姿なのですが、そのお顔というか雰囲気が俳優のどなかたに似てる。「似てる」と思いだしたら、「誰だっけ? あー、顔は出てくるのに、名前がーっ! あなた、誰ーっ!?」とぐるぐる回りだして止まりません。結局、博物館にいる間中、頭のスミにこびりついて離れなかったのでした(実家に帰ってから、母と話している最中、「ほら、あの『北の国から』のお父さん」「ああ、田中邦衛かいね」「それだっ!」で、スッキリ解決。ありがと、母さん orz)。


 新館では、夏休みの親子向けに「親と子のギャラリー 仏さまの彩り」を開催していました。仏像や仏画、経典などに使われている「色」について、年月で退色した色をCGで再現し、なぜその色が使われているのかを解説。色付き和紙に金や銀で書かれた経典など、滅多に公開されないものの展示等、大人でも充分勉強になりました。
 しかし、この新館、展示室によって、なんだか変な匂いがするのです。なにかの薬品みたいな。たぶん体調が万全でなかったせいでしょうが、気分が悪くなってしまい、鑑賞は駆け足になってしまいました。


 入館したのが遅かったので、閉館時間の17:00に出ました。「江戸三」には「17:00ごろに戻ります」と言っていたので、奈良公園を突っ切って、そのまま宿へ。


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<料理旅館 江戸三>
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 1907(明治40)年創業。今年で100周年を迎える「江戸三」は、現在、「100周年宿泊プラン」を設けており、通常より料金が安くなっています。
 私たちは、女性だけのグループプラン「レディースプラン」を予約しました。特別料金に加え、夕食時の飲物1本と記念品、モーニングコーヒーのサービスがつくのですv


 母屋から案内された「離れ」は、こじんまりとした二間の庵。玄関に太鼓が飾ってあり、客室名は「太鼓」。昔、電話のないころ、「離れ」から仲居さんを呼ぶとき、各「離れ」にそれぞれ違った楽器が置いてあって(太鼓、銅鑼、鈴など)、それを使ったそうです。楽器の音で、どこから呼ばれているのかわかったそうな。その楽器名が、そのまま客室名になっています。
 母屋と大小10棟ある「離れ」で構成された「江戸三」。私たちが泊まった「太鼓」はいちばん母屋から近く、いちばん小さいタイプ。そして浴場の「離れ」にいちばん近いところでもありました。
 玄関を入ると、2畳ほどの控えの間(ここに丸窓があります)に続いて、床の間のある8畳ほどの和室。あと、洗面所とウォシュレットなトイレですべて。
 障子を開ければ、窓の外は奈良公園。親子連れの鹿や、夕暮れの公園を散策する観光客の姿が見えます。でも、道行く人が間近に寄ってくるわけではないので、姿は見かけても、気にはなりませんでした。


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 徐々に暮れなずんでいく風景を楽しみながら、お夕食。
 懐石料理の先付けは3品のところが多いのですが、こちらは6品もあり、まずその多彩さに驚きました。お刺身は、奈良ホテルの小懐石と同じ「マグロ・ハマチ・ヒラメ」。今日の奈良の魚市場は、この3種が新鮮に出回っていたと見た(笑)。
 変わっていたのは、揚げ物(天婦羅など)がなかったこと。代わりに煮こごり系のものがあったのは、やはり夏を意識してのことでしょうか。あと、三田牛(だったっけ)のたたきの上に乗っていた輪切りのゴーヤが、色鮮やかなうえに、皮の突起も毛のようで、思わず「これはなんですか?」と聞いてしまいました。ゴーヤなのに苦くなく、甘みがありました。
 夕食時の飲み物のサービスは1グループ1本かと思っていたら1人1本だそうで。嬉々として冷酒「豊祝」を堪能v でも、やっぱり疲れが出たか、博物館の匂いの影響が残っていたか、お酒1本しかつき合えませんでした。2本目つき合えなくて、ごめんよ……。どうも私の旅は、エンジンがかかるのが2日目からっぽい orz。


 浴場のある「離れ」は、2人用と4人用の2つの浴室への入り口があり、入ったら、入り口に鍵をかけます。つまり家族風呂状態。「4人用を使ってください」と言われたので、2人でのびのび浸かりました(そんなに広くはないのですけどね)。




<ライトアッププロムナード>
 お風呂のあと、「ライトアッププロムナード」を見に出かけました。これは、7月1日〜10月31日の期間中、興福寺春日大社一の鳥居・国立奈良博物館・東大寺猿沢池・浮見堂や、平城京朱雀門薬師寺など、奈良の主だった観光名所をライトアップしているもの。
 以前見たとき、とても美しかった印象があり、相方を誘ったのですが……今回は寂しかった。興福寺はそれでも人が何人かいたり、ライトアップ観光のバスが止まっていたりしたのですが。猿沢池春日大社一の鳥居付近は誰もいません。日曜日の夜の奈良なんて、観光客も少なければ、近隣のホテルの明かりも少ないんですね(1室しか照明が灯っていないホテルや真っ暗なホテルがけっこうあり。奈良ホテルくらいでした、客室の光が賑やかだったのは)。
 浮見堂まで行くつもりで夜道を歩いていたのですが、あまりの暗さと寂しさに、道を間違えたのを機に、宿に引き上げました。
 奈良はまだ闇が濃いですね。特に奈良公園という、夜闇に沈む地帯があるのが暗さを意識させます。この時代に、まだ「闇」の暗さや恐さを感じられるのが、奈良のいいところだと思います。


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 「江戸三」に戻って、あとは睡魔に誘われるまま……。志賀直哉小林秀雄藤田嗣治らが訪れたこの旅館の、木と畳と土壁に囲まれて熟睡。

日本料理 花菊

食べログ 日本料理 花菊


江戸三

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