Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

奈良旅行:飛鳥編

 すっきり目覚めて、朝風呂を楽しんだ奈良旅行2日目の朝。
 お宿の朝食は緑茶の「茶粥」で、昨日の奈良ホテルのほうじ茶の「茶粥」とはまた風味が変わって、美味しくいただきましたv
 モーニングコーヒーに生チョコタイプのチョコレートがついてきたりv 記念品は奈良のおみやげブランド「白雪」の「うるおいたおる」だったりv これ、ガーゼ地で手触り抜群なんですよ。「湯あがり足袋」も普段履きにできるしっかりしたもので、女性の好むポイントをしっかりつかんではるなあという感心しました。
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 もし今日が雨だったら、藤原不比等在原業平といった「古のイイ男」の足跡を訪ねて佐保・佐紀路を歩く予定でした。しかし曇天ながらも晴れたので、「古代の旅」すなわち飛鳥を歩くことに。曇りがちとはいえ真夏日ですし、ムシッと肌にまとわりつくような暑さでしたので、「無理はしない」をモットーにルートを検討。とりあえず飛鳥駅から石舞台までを目標に行ってみることにしました。


 飛鳥を訪れるのは、小学生のときの家族旅行(飛鳥駅から酒船石までのコース)、亀形石造物の発見者の方へのインタビュー(甘樫丘)、JRが主催するウォーキング(岡寺駅から石舞台までのコース)と、今回で4回目。しかし、考えてみれば、一度も奈良駅から電車で飛鳥駅に行ったことはなかったのでした。乗る電車を間違え、しかし幸いなことに行き先方面は同じだったので、行き先が分岐する駅で正しい電車に乗り換えてみたり。飛鳥は初めてらしき相方を一応案内する役なわけですが、ひじょうに不安(苦笑)。




<天武・持統天皇陵>
 飛鳥駅からまずは「亀石」を目指してGO! 途中で「高松塚古墳」に寄れますが、今回の目的は「石舞台」なのでパス。そのまま歩いて行くと、「野口王墓古墳」こと「天武・持統天皇陵」に着きました。
 天武天皇は、天智天皇中大兄皇子)の弟で、即位前の名前を大海人皇子と言います。父親は舒明天皇、母親は皇極天皇斉明天皇)。持統天皇は、天武天皇の皇后で、天智天皇の娘。この「野口王墓古墳」は、天皇二人の夫婦合葬墓なのです。古墳の上にあるお社までは登りませんでしたが、こうしてお墓があるのを見ますと、遠い歴史の中の人が「現実にいた人だったんだなあ」としみじみ実感します。
 さて、この古墳の周りを梅の木が囲んでいたのですが、「この梅の実は誰のものなんだろう」というのが、個人的に最大の謎です。


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写真はすべて画像クリックで大きくなります。


 そして、考えるまでもなく、飛鳥巡りは「皇極・斉明天皇の足跡を辿る旅」なんですよね。それは、ここからもう始まっていたのでした。




<亀石>
 「飛鳥に来たら、見なきゃね」という、「飛鳥の謎」のひとつ。それが「亀石」。誰がなんのために造ったのか、今だ不明です。
 小学生のころに見に来て以来で、そのころとは周りのようすや道も変わっているため、迷いました。ガイドブックに「うっかりしていると見落としてしまう細い道」と書いてあったのですが、そのとおりに見落としましたさ orz。すぐ間違いに気づけたのが、不幸中の幸い。
 初めて出会ってから30年近く経ちましたが、「亀石」は記憶のままの「亀石」でした。でも、こんな、民家の庭先みたいなところにあったのかあ。場所については、まったく記憶にございません。


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<川原寺>
 天智天皇により創建された、かつては飛鳥寺・大官寺とともに「飛鳥の三寺院」に数えられた大寺院でした。今では、大理石の礎石と塔跡と青草が生い茂る敷地から、当時の広大な伽藍の規模を推し量るしかありません。
 現在の「川原寺」は、古の伽藍の中央にある小さなお寺。本堂の隣りには食事処「花椿」があります。そこで、ちょっと早めの昼餉。「麦とろ御膳」は、キュウリの酢の物や野菜の炊き合わせ、青のりのお味噌汁、川魚の甘露煮など、素朴な味わいで美味しかったのですが。とろろがご飯3杯分は優にあり、ご飯は2杯分しかないという不思議。余ったとろろは、きれいにすすらせていただきました(笑)。すっかりお腹いっぱいで、ちょっと苦しいくらい。しっかり歩いて消化しましょう。

 ご住職らしき作務衣を着たご老人が、閉め切られた本堂の縁側に座っていらしたのが印象的でした。


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<橘寺>
 道路を隔てて、「川原寺」の向かいの小高い丘に建つのが「橘寺」。聖徳太子生誕の地と伝えられ、ご本尊は聖徳太子坐像です。
 太子の祖父である欽明天皇の「橘の宮」があったところで、また太子の父親は橘豊日命(用明天皇)ということで、聖徳太子は「橘」に縁の深い方だったのですね。


 「橘寺」の名前は、『日本書紀』にある逸話から。
 垂仁天皇の命令で、「常世(トコヨ)の国」(中国雲南省といわれる)へ不老長寿の薬を探しに行った田道間守(たじまもり)。長い年月の末、ようやく秘薬を探し当てたものの、帰国したとき、天皇はすでに亡くなっていました。彼が持ち帰った秘薬「非時香果(トキジクノカグノコノミ)」をこの地に蒔いたところ、橘(ミカンの原種)が芽生えたことから、ここを「橘」と呼ぶようになったそうです。
 田道間守は黒砂糖も持ち帰り、橘といっしょに薬として使っていたそうで、そこから蜜柑・薬・菓子の神さまになったとか。もちろん、「橘寺」の本堂にお祀りしてありました。

 また、このお寺には飛鳥時代の石造物で、人の善と悪の顔を表しているという「二面石」があります。


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<石舞台>
 「橘寺」から「飛鳥遊歩道」を辿って山道を歩くと、川のせせらぎが聞こえてきます。橋を渡ると、そこは公園になっていて、丘陵公園の上のほうに「石舞台古墳」があります。
 元は土に覆われた古墳でしたが、土がなくなり、玄室の石組み部分だけがむき出しで残った、日本最大級の「石室古墳」。一番大きな石で79トン、39個の巨石をすべて足せば2,300トンになると推定されています。こんな巨石を切り出し、運んで積むという古代人の知恵と労力は、想像を絶します。重機なんて、当時はなかったのですから。


 蘇我馬子の庭園が近くにあったことから、「馬子の墓」説が有力なのだとか。古墳の脇には石棺の複製も置いてありましたが(本来の石棺は盗掘に遭い、欠片のみ発見されている)、「死んでからでも、こんなに狭くて暗くて重そうなところに入れられるのはイヤだ」と思えるようなモノでした。あんなところに入れられたら、死してなお、閉所・暗所恐怖症になること間違いなし。どこかの面堂さんみたいに「くらいよ〜、こわいよ〜」と怨み節を唱えてしまいそうです。


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 「石舞台」の名前は、その上で狐が踊ったという伝説からついたものだとか。特にススキの季節、月の下、石舞台の上で踊る狐なんて絵になりそうです。
 なんて考えていると、休憩所近くの路上にキツネ色のオスネコが現われて、ゆったり寝そべりました。観光客慣れしているのか、私たちが近づいても逃げません。それどころか、「好きに触れや」と言わんばかりに、どこを撫でまくっても寝そべったまま。鷹揚な毛玉さまのおかげで、すっかり癒されました。アニマルセラピーは効力抜群ですねv


 公園から出たところの売店で「古代米ソフトクリーム」が販売されていました。相方が買ったのを味見させてもらいましたが、思ったよりさっぱりした甘さでした。うまうまv




<伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)>
 「乙巳の変」の舞台。皇極天皇の目の前で、天皇の息子である中大兄皇子中臣鎌足蘇我入鹿を殺した宮の跡です。その後、蘇我蝦夷の自害により、長い間、政事の実権を握っていた蘇我氏は滅亡。中大兄皇子中臣鎌足による「大化の改新」が始まります。
 発掘された遺構を復元し、「伝飛鳥板蓋宮跡」として史跡公園になっていますが、この遺構は天武天皇持統天皇が築いた「飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)」のもので、「板蓋宮」はさらに下に埋まっているという説が唱えられています。


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<入鹿の首塚
 「乙巳の変」で中大兄皇子に切られた蘇我入鹿の首が飛び来たり、「板蓋宮」を睨みつけたという伝説が残る場所。なので、てっきり「板蓋宮」の近くにあると思いこんでいました。ところが、「板蓋宮」周辺を見渡しても、それらしきものはありません。
 「どこにあるのだろう」「見落としたのかなあ」と言いつつ「飛鳥寺」への道を辿っていると、やがて青葉そよぐ田畑の中のあぜ道で、おばさんがふたり、地元の人らしきおじさんと話しているのが視界に入ってきました。その背後には、「飛鳥寺」の赤い幟が列をなして風にはためいています。おばさんとおじさんが立っているあぜ道を目で辿ると、角になったところに、記憶にある五輪塔が!
 「あった! あれだ、あれ!」ということで、「入鹿の首塚」、3度目の逢瀬です。「飛鳥寺」の近くにあったのね。そういえば、前回来たとき、「ああ、飛鳥寺の近くにあったんだ」と思ったような気がしなくも……。学習しろよ>自分 orz。
 蘇我入鹿といい、平将門といい、怨みを呑んで死んだ人は首を飛ばす習わしでもあるのかと、八つ当たり気味に思いました(笑)。


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飛鳥寺
 596年、蘇我馬子が建立した、日本最古の本格的仏教寺院。故に「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などと呼ばれてきました。創建当時は百済風の伽藍配置をもつ大寺院だったそうですが、今の「飛鳥寺」からは、当時の規模は偲べません。
 この「飛鳥寺」が平城遷都で平城京に移されたのが、ならまちの「元興寺」です。


 本尊の「飛鳥大仏」は、日本で造られた最古の仏像です。金堂の焼失などで破損し、頭と指しかなかった状態から、発掘調査で見つかった部分を修理して復元されました。よく見ると、つぎはぎの痕が見えます。
 「飛鳥大仏」は、推古天皇の命により、中国から渡来した仏師・鞍作止利が造ったもの。ですから、日本の仏像とはお顔の感じや雰囲気が違って、エキゾチックです。
 一度、この仏さまの前に座ったとき、いいようのない清浄な空気を感じたので、再び訪れてみました。やはり、どこかきっぱりと潔癖な、それでいて人が抱える苦しみを吸い取ってくださるような空気は変わっていませんでした。
 私が好もしいと思う仏像の様式とはかけ離れているのに、惹かれずにはいられない、不思議な仏さまです。


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<あの亀>
 「飛鳥寺」を出て、さて「甘樫丘」に行くか、「酒船石古墳」を見に行くか。いいかげん脚が笑いかけている私たちにとって、それは究極の選択。結局、「酒船石古墳」を選びました。

 ここにあるのが「亀形石造物」です。2000(平成12)年、「亀形石造物」が発見された際、明日香村役場にそれを発見された方のお話を聞きにうかがいました(その方はキトラ古墳の発掘調査にも関わっておられ、たいへん興味深いお話を聞くことができました)。
 それから間もなく、JRのウォーキングイベントに参加したときに立ち寄った「亀形石造物」は、発掘跡も生々しい、工事現場のように掘り上げた土砂が積まれた、その底にありました。


 このたび訪れてみると、かつての土砂の山は、見学しやすいように整地され、芝生や花が植えられ、竹垣やベンチのある美しい公園に変わっていました。そのうえ、観覧料金300円が必要になっていました(笑)。
 砂岩湧水施設と「亀形石造物」と便器のような「小判形石造物」が水でつながる設備であることを示すためか、ポンプで循環する水が通されている親切設計(でも、水で石が摩耗しちゃわないか、ちょっと心配)。
 工事現場状態だったときよりも、近くまで降りて見られるのはよかったです。やっぱり、なんとも愛らしいというか、ユニークな亀でしたv


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 この「亀形石造物」と、その傍の山の上にある「酒船石」を合わせて「酒船石古墳」と呼ぶようです。
 「伝飛鳥板蓋宮跡」で登場しました、中大兄皇子の母親である皇極天皇は、重祚(ちょうそ)して斉明天皇となりました。斉明天皇となってからの女帝は、のちに「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれるようになる、のべ3万人を動員した大運河など、大規模な土木工事を次々に行ないます。特に石の永遠性を好み、宮や庭園に石を置いたり、敷きつめたりしました。
 飛鳥は「水と石の都」と呼ばれます。そんな形容がつくほど、工事に次ぐ工事で民をすっかり疲弊させた斉明天皇。でも、石好き、工事好きの女帝のおかげで、現在まで残っているものが多いのかなあと思います。確かに石は永遠なのかもしれません。
 さて、その斉明天皇がのべ7万人を集めて行なったという、『日本書紀』にある「宮の東の山に石を累ねて垣とす」工事が、この「酒船石遺跡」のことではないかと言われています。


 「酒船石」を見に、山道をえっちらおっちら。距離はそんなにありませんが、疲れた脚にはきつい上り道です。さやさやと涼し気な音をたてる、緑のトンネルのような竹林の中に、ナスカの地上絵みたいな模様が彫り込まれた「酒船石」はありました。
 「酒船石」も「亀形石造物」も、確かに存在しているのに、なんのために存在したのかわからないところが、ロマンだなあと思います。


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 「酒船石遺跡」からバスに乗って飛鳥駅に戻りました。途中、健康福祉センターに「太子の湯」という、「飛鳥ゆかりの古代の湯」に浸かれる施設があるのを知ったのですが、帰りの電車の時間もあるしということで、今回は諦めました。次に飛鳥に行く機会があれば、なにはともあれ寄りたいと思います(笑)。


 飛鳥駅から大阪の近鉄あべの駅まで一直線。爆睡しているうちに、着いてしまいました。
 久しぶりに、みずみずしい青い稲が波打つ田んぼや風吹き渡る野や山の道を歩き、澄んだ空気を呼吸して、すっかりリフレッシュしました。疲れましたが、当初の目的は果たしたうえに「飛鳥寺」や「亀形石造物」も見られましたから、満足。
 さて、こんどはどこを旅しましょうか。

川原寺 花つばき

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