Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

恋の話をしようか。

 この「日記」はそういう話です。他人の、それも10年以上も前に終わったコイバナなんて知りたくねえやという方は、回避よろしくです。




 まずお断りしておかなくてはならないのは、私には結婚願望がないってことです。理由はいくつかあるのですが、いちばん大きいのは我が一族の血のせいでしょう。自分を顧みればわかるのですが、父方も母方も辛抱の足りない人が多い。つまり、離婚率が高いのですわ(笑)。
 小学生のときに弟といっしょに結婚式の雄蝶雌蝶の役をやってですよ。「これからはお姉さんと思ってね」とか、白無垢や金襴の打掛を着たきれいなお姉さんににこやかに微笑まれて、どぎまぎしながら「よろしくお願いします」なんてご挨拶して。何年か経てば、子どもが生まれて。敷地内のアパートにそうした親戚が二世帯住んでいたので、子どもたちは私にとって弟分妹分ですよ。弟など留守の間に部屋に入られて、「あいつにプラモデル壊された!」なんて怒っちゃうような身近さですよ。
 ところが、ある日、祖母の部屋で大人たちが集まってなにか深刻そうな話をしていたと思ったら、お姉さんも弟分妹分の子どもたちもいなくなって、それっきり。そういうことが二度もあったり、ほかの親戚の別れ話を聞いたりして、気づけば、私にとって結婚というのは幸せの象徴ではなくなっていました。
 恋の成就は幸せなことだと思います。でもその幸せのゴールが結婚だとは思えない。むしろ次の苦難と困難の始まりだと、高校のころにはそう感じていたように思います。だから、私は「結婚しない」のではなくて、「結婚したくない」に大幅に比重が傾いているんですよ。まず、これが前提。



 それでも、今までに二回、真剣に結婚を考える機会がありました。一回目は28のとき。二回目は30のときですね。
 二回目の相手というのが、本館サイトの記事や日記にも書いたことがあるトニー・Fです。パブで知り合って、私がオックスフォードにいる間はほぼ毎週末会っていました。何回目かの逢瀬で「トニーってアンソニーの略称?」と聞いたら、「なぜ日本人のキミがそんなこと知ってるんだ!?」ってとても驚いていましたっけ。そうじゃないかと思った、というか、『キャンディキャンディ』を知る世代にとっては「アンソニー」はそれなりに思い入れのある名前なんだってば(笑)。
 彼はオックスフォードに本社をもつ出版社の、学術書関係の編集者。趣味は数学。新聞のクロスワードを解く感覚で、数学の検定問題を解くような人でした。もうひとつの趣味が、週末音楽家。金曜日の夜や土曜日の夕方、古びたフィドル(ヴァイオリン)片手に、これまた古びたキャバリエに乗って、郊外のパブに出かけます。ふたりでエールを飲みながら話し込んでいると、三々五々、アコーディオンフィドル、ギター、笛などを携えた人や、パブに備え付けのピアノの蓋を開ける人、ドラムの準備をする人がやってきて、いつともなくセッションが始まります。
 私がケルティックサウンドアイリッシュフォークに親しいのは、こうしたセッションや彼が連れて行ってくれたパブのフォークナイトでよく聴いていたからです。


 彼と私の関係がうまくいったのは、ひとえに言葉の壁があったからだと思います。私はなにを感じても、思いついても、考えても、それを英語に直さなければならない。トニーはトニーで、私の英会話レベルに合わせた文章を考えなくてはならない。どんなに感情的になっても、英語で話すかぎり、お互いにひと呼吸が必要になるんです。おかげで私たちの会話は常にpolite。言いたいことをそのまま言えないことにストレスを感じなかったと言えばウソになりますが、私もそしてトニーも感情的になりたくてもなれない会話のほうが心地よかったんですね。後悔がないですから。
 ついでに、私は「あなたのためにわざわざ外国語を使ってあげてるのよ」、トニーは「僕はキミのつたない英語に合わせてあげてるんだ」と、ただ英語で会話するだけで「相手を思いやってる」という自己充足感を得られたのも、円満をもたらした要因でしょう。


 さて、パリでの仕事を終えて、ロンドンの職場も辞めて、FCE(ケンブリッジ英検)を受験するために再びオックスに戻ったときに、将来の話が出るようになりました。
 ポーラ・ゴズリングのミステリー小説『ゼロの罠』に登場するスキナー教授。私は彼が大好きでした。天文学の教授で、星の位置を計算して現在地の経緯度を割り出せるほか、さまざまな分野に造詣が深い、物静かで思慮深い英国紳士。趣味は、クラシック音楽の観賞。そのスキナー教授の雰囲気とインテリジェンスに近いものを、トニーに感じていました。欧米の男性独特の、あのクスンと鼻を鳴らす甘えたしぐさまで好もしかったのです。
 本来なら恋の成就ということで、次の段階に行きましょうかとなるところ。しかし、ここで私の生来の「ものぐさ」「めんどくさがり」が顔を出したんですね。
 英国生活も一年以上。ケントのル・コーニー家、オックスフォードのクラーク家、ロンドンのカルーサー家と下宿先を転々として、英国女性の家庭での立場と役割を見てきました。ジャニスのような近所づき合いや毎日の犬の散歩、ディーナのような母親どうしのつき合いやクリスマスディナーに代表される親戚とのつき合い、ジョスリンのような教会バザーやオックスファムでのボランティアといった地域活動への参加。そういう諸々が私にできるのか。トニーはたぶん気にしないでしょうが、彼の親族やご近所はそうはいかないでしょう。不手際を「ああ、やっぱり日本人だから」と言われるのは口惜しい。でも日本人だから完璧に英国人と同じことはできないだろう。
 このあたりをぐるぐる考え出したときに「やっぱり結婚はめんどくさい」と思うようになり、さらに突然に目が見えなくなったり、声が出なくなったりといった、パリでの仕事で溜まりに溜まったストレスが引き起こす怪現象にも不安があり、ついに別れて、日本に帰ってきたのでした。

 その後、40代に至るまでに、プロポーズされたり、結婚を前提としたおつき合いをと言われたり、親が釣書をもってきたりと、「結婚」の二文字が目の前にちらついたことは四回ほどあったわけですが、ことごとく無きモノにしてきました。
 ちなみに、ミラノのスフォルツァ城で声をかけてきて、その夜には「あなたこそ、僕が待っていた人だ。両親に会ってください」とかましてくれたロベルトはカウントしていませんよ。「さすが世界一のナンパ王国イタリア、ハンパねえや」と心底から呆気にとられたけど(笑)。
 なんというか……あんまりよくないことだという自覚はあるのですが、どうしても比べてしまうのですよ、トニーと。男性としては理想的だった彼との生活を「めんどくさい」のひと言で下したのだから、それ以上に私が惚れ込む相手が出現して、私のものぐさを吹き飛ばしてくれないかぎり、結婚なんて無い話だろうと思うわけです。
 もうひとつ、私自身が持て余す放浪癖も問題ですね。今はひとり暮らしだし、会社勤めではないので人間関係に悩む状態でもないし、思い立ったときにひとりでぶらりと日帰り旅行などできるので治まっていますが……。角川書店を辞めて英国に飛び出たみたいに、あるいは祖母の死後、実家を飛び出したみたいに、やるときは後先考えずにやります。おかげでペットも飼えないんだからな。それこそエリーザベトみたいに世界中走り回ってても(経済的にも)OKよというフランツ・ヨーゼフ1世のような方がいらっしゃれば、考えます(笑)。


 この年齢になれば、さらに条件が付加されます。それは、相手の介護ができるかということと、相手に介護されても平気かということ。子どもを生み育てることで「家族」という絆を結ぶ時間は、もう望むべくもないわけじゃないですか。その絆なしに「結婚したら家族なんだから、なにかあったときはよろしく」と言われても、私には受け入れがたい。そもそも私が「じゃあ、私になにかあったときはよろしく」と言えない。



 まあ、末は森茉莉や近いところでは大原麗子のような孤独死かも知れませんが、そういう運命なら、それもしょうがないんじゃないのと思うこのごろ。昔、『イソップ寓話』を読んだときは、私はアリになろうと思ったものですが、実際はキリギリスでしたというオチ。
 でもこの人生、後悔だけはないんですよ。思い悩むことや苦しいこともあるけれど、それはこの世に生きるすべての人が大なり小なりもっていることでしょう。根本的に好きなように生きてますからね。



 ま、暑さと多忙で脳が煮えた人間の戯言とでも。
 明日までに初校110ページ見なきゃならないので、こんな長文を書いてる時間はないはず……なのだが! 次の本の作業も始まっているうえに、もう1冊、仕事入れちゃった私はいったいどうするつもりなんだ。ま、がんばりますよ。盆休みとかありませんから。9月中旬までノンストップですから。選挙と遊びの電話は「No, thank you!」。