Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

実は「テーマ旅」だった!? 徳川光圀と岡倉天心

 先週の水曜日(5月27日)のこと。『臨場』を観終わってNHKにチャンネルを回したら、『歴史秘話ヒストリア』が始まるところでした。テーマは「いつだって好奇心 〜水戸黄門 知られざる熱中人生〜」。水戸旅行の記憶もまだ新しいところで、なんてすてきにタイムリーな! もちろん、「チャンネルはそのままで!」です(笑)。


 水戸の弘道館へ行ったとき、奇妙な印象をもったんですよね。展示物にやけに「拓本」が目につくのです。たとえば「正庁の間」に掲げられた「弘道館記」の掛け軸は、九代藩主・徳川斉昭が1841(天保12)年に弘道館を開設した際、その建学の趣意を寒水石(大理石)に刻ませた「弘道館記碑」の拓本です。石碑自体は、弘道館の敷地内に立つ「八卦堂」に納められています。
 ほかにも、斉昭が梅の植栽の有用性を説いた「種梅記」の石碑や貞芳院の歌碑、斉昭が鋳ったとされる学生警鐘に至るまで、拓本がとられていることにかなり驚きました。


 学生時代、博物館学芸員(資格名称につく「博物館」は、博物館・美術館・科学館・動物園・植物園などをすべて含む)の資格を取るために、博物館実習を受けました。私がお世話になったのは、姫路にある兵庫県立歴史博物館。2週間の実習期間中、実際に所蔵品を使って、撮影(いわゆる「物撮り(ぶつどり)」)の仕方、見方・触り方、保存方法などを学びました。ちょうど特別展の入れ替え時期で、最後の2日間は力仕事に明け暮れたりね(笑)。
 そのとき教わった保存方法のひとつに、拓本がありました。これは「複写」の技術で、特に石碑や青銅鏡や硯といった、平面に文字文様が彫り込まれているものに有効です。実習では、個人で青銅鏡と、グループで大きな石碑の拓本をとりました。やり方は簡単。拓本をとりたいモノに画仙紙(宣紙)を置き、上から濡らした布で押さえて空気が入らないように貼り付けてから、墨を含ませたタンポでポンポンと軽く打っていきます。凸部は墨がついて黒くなり、凹部は墨がつかずに白く残ります。
 ミステリーでよく、メモに書かれた文字を再現するために、持ち去られたメモの下の用紙を鉛筆でこすって、筆圧で凹んだ文字を白く浮き出させるシーンがあるでしょう。原理はあれといっしょです。
 受け取ったときは、青緑色の地に複雑な文様が凸凹してるなあとしか見えなかった青銅鏡。タンポで打つうちに、被せた紙の上に龍や虎の模様がくっきり現われたときには感動しました。
 風雨にさらされている石碑が今後損耗していっても、拓本をとっておけば、彫られた文字文様は紙上に残ります。また、石や青銅の地色に紛れたり、損耗がひどかったりして肉眼では判別しがたい文字文様も、拓本にはくっきりと現われます。


 拓本とは、残しておきたいものを損なわずに残す、ひとつの手段です。弘道館できちんと掛け軸に表装された拓本の数々を見て、水戸の人たちは文化財を保存するという意識が高いんだなあと思いました。人物の筆跡を石に刻み、さらに拓本をとって掛け軸にまで仕上げるというのは、ほかではちょっと見ない現象だったので。
 帰宅してから、水戸の拓本は「水戸拓」と呼ばれる、名物のひとつと知りました。江戸時代末期の文政年間に水戸の薬問屋・岩田健文が長崎で中国人から拓本の技術を学び、持ち帰ったのだとか。その技術が、弘道館で本の出版を手がけていた北澤家に受け継がれたそうです。

 でも「なぜ水戸で拓本が盛んなのか」という疑問は残ったんですね。その謎が『歴史秘話ヒストリア』で解けたような気がします。水戸黄門こと徳川光圀、あなたは博物館学芸員の先駆けでしたか! 野原に埋もれていた「那須国造(なすのくにのみやつこ)碑」を見つけ、それが飛鳥時代のものと突き止めた光圀は、土台を造り、御堂で囲み、石碑の現状維持に腐心します。
 また、「諏訪の氷穴」という鍾乳洞を探検した光圀は、そこにあった「万年大夫・万年守子」の夫婦座像を永年保護するために、それらを模したひと回り大きい木像を造らせ、そのなかに元の像に収めました。
 ああ、なるほど。『大日本史』を編纂して、日本という国の成り立ちからの歴史をできるだけ正確に後世に伝え残そうとした光圀は、「歴史の証言者」たる石碑や造形物を保存することまで視野に入れていたんですね。その精神が彰考館から弘道館へ、さらに水戸の文化へと受け継がれたのだとしたらすごいなと、納得する以上に感心しました。



 こういう事実を知ってしまったからには、岡倉天心にも触れないわけにはいかないでしょう。そう、彼こそ、日本の文化財保護の礎をつくり、近代的な美・博物館の在り方および学芸員の心構えに影響を及ぼした人物なのです。


 今から140年ほど前。王政復古の大号令のもと、明治政府は神道を国家統合の基盤とするため、国教にしようとしました。1868(慶応4)年の「神仏分離令」と1870(明治3)年の「大教宣布」で打ち出されたこの政策により、日本各地で仏教施設の打ち壊しが始まります。すなわち「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動です。
 2001年3月、世界遺産に指定されているバーミヤン渓谷の巨大石仏がタリバンによって爆破されるさまが報道され、全世界に衝撃を与えました。これと同じことが、日本で起こっていたわけです。
 寺院や仏像は破壊され、土地や宝物は売り飛ばされ、僧侶は次々に還俗。興福寺五重塔は2円(当時の5万円)で売られ、もう少しで薪にされるところでした。野山に佇む五百羅漢に、首のない像、叩き割られた像が多いのも、このときの法難によるものです。この神道国教・祭政一致の政策に影響を与えたのが水戸学だったりするわけですが、話が広がるばかりなので割愛。
 後世から見ればヒステリックとも思えるほどに、火の勢いで全国に広がった廃仏毀釈の運動は、1871(明治4)年、いちおうの終息を迎えます。


 岡倉天心が生まれたのは、1862(文久2)年。横浜の貿易商の息子として、幼いころから英語に親しみます。東京大学政治学・理財学を学び、1875(明治13)年、文部省に入省。翌年、恩師であり、政府の「お雇い外国人」であったアーネスト・フェノロサが望んだ日本美術観賞の助手として、各地の古寺を巡ります。
 そこで天心が目にしたのは、破壊され、野ざらしにされた仏像の山でした。552(欽明13)年に日本に仏教が伝来してから、1300年以上の長きに渡って日本人の心を支えてきた仏たちの無惨な姿に愕然とした天心は、その修復と保護を決意します。しかし、「西洋化こそ日本の近代化」という思いに取り憑かれ、列強に追いつけ追い越せと富国強兵の道を驀進する明治政府に、天心の声はなかなか届きません。

 1886(明治19)年、天心はフェノロサを通じて、初代内閣総理大臣となった伊藤博文に日本美術の価値を伝えます。それから10年後、1897(明治30)年にようやく「古社寺保存法」が成立。国が社寺・仏像などの保護や修理を行なうと定めたこの法律から、「国宝」や「特別保護建造物」の指定制度が始まりました。
 まさにここが日本における文化財保護の幕開けであり、天心が「美術品としての価値」と「信仰の対象としての仏像の在り方」の狭間で葛藤した仏像修理の考え方と方法は、近代の美・博物館の収蔵品に対する姿勢の基になっています。


 さて、仏像をはじめとする日本美術の保護のほかに、もうひとつ、天心が進めたことがあります。それは、日本画の新しい画法の開拓でした。
 それまでの日本画は、ものの輪郭をはっきり描いて、そのなかに色を差していくという方法で描かれていました。影の描写がない、言い換えれば光の描写がない、「ぬり絵」のような描き方と言えばいいでしょうか。
 浮世絵を見たフィンセント・ファン・ゴッホは、その明快な色づかいと影の描写がないことから、日本は影ができないほど日光が充満した国だと思い込みました。日本と同じくらい明るい場所を求めて、南フランスのアルルに芸術家村をつくろうとした逸話からも、日本画の特殊性がうかがえるかと思います。
 その日本画に西洋画風の光と影を取り入れようとしたのが、天心でした。日本画独特の「輪郭線」を廃し、光が当たる部分は背景に溶け込ませるように、影の部分はにじませるように徐々に濃くなるように塗り重ねる。それが、旧来の日本画に慣れた人の目には「ぼうっと眠いような、間の抜けた絵」と映り、揶揄を込めて「朦朧体(もうろうたい)」あるいは「縹緲体(ひょうびょうたい)」と呼ばれるようになりました。そこには、日本画と西洋画の中途半端な混ぜ物という意味もあったかもしれません。


 ここからは私見になるのですが、天心は「朦朧体」を唱えることで、それまでの日本画を否定するつもりはなかった。それよりも、「そんなに西洋化に傾倒するのなら、ただ西洋画を真似るのではなく、新しい画法をつくってみろ」という思いがあったように感じるのです。
 ここで、「人間は水のようなものである。水を水瓶に入れた状態が人間であり、水瓶により自我や個性をもつが、水瓶を壊してしまえば、すべては同じ水である」という、「不二一元」の考え方をちょっと持ち出してみます。
 これを、音楽に応用してみましょう。ヴァイオリンもギターも、胡弓も琵琶も、楽器として並列するものであり、そこから生み出される音は「音楽」というひとつの芸術にまとめられます。同じように、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」もミケランジェロの「ピエタ」も、永観堂の「山越阿弥陀図」も法隆寺の「釈迦如来像」も、人びとの信仰を導くものとして並列であり、「美術」というひとつの芸術にまとめられます。そこには上位も下位もない。なぜそれがわからないのか。
 日本の仏教美術は、インドに発祥をもち、中国を経て日本に到達し、日本の精神文化を取り入れて独自の成果をつくりあげました。そして、そこから日本美術が成立してきたのです。日本美術はまさしく、中国を横糸に、インドを縦糸にして織られた綾織。では、そこに西洋という一糸を加えて、さらに新しい錦織をつくればいい。それが天心の考えだったのではないかと思うのです。


 「Asia is one.(アジアは一つである)」。著書『東洋の理想』のなかにあるこの言葉は、のちに「大日本帝国がアジアをまとめるべきだ」という国粋主義者のスローガンにもなりましたが、天心が意図したのは決してそんなことではありません。
 日本を含む東洋文化圏はその歴史と完成度において、西洋文化圏に充分比肩しうるのだ、と。「アジア」に属する日本は、孤立した存在ではなく、その文化水準を一国だけで判断し、否定していいような、そんな軽い国ではない。長い歴史を歩み、アジア諸国の影響を受けながら独特の美意識を紡いできた国なのだ、と。そこには、叫ばんばかりの天心の気持ちが込められているように感じます。
 しかしながら、西欧諸国に追いつけ追いこせの時代に、天心の考え方は理解されませんでした。伊藤博文にさえ、日本画を観賞させながら、アメリカ人であるフェノロサに「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」と言わせないと通じなかったくらいです。


 私が天心に尊敬の念を抱いているのは、彼が「行動人」だったからです。彼は間違いなく、アルチュール・ランボー言うところの「Voyan(ヴォワイヤン=見者:普通の人間以上の感覚と感性をもつ者)」だったと思います。さて、フランスのヴォワイヤンたちが紙の上に自分の考えや理想、それが世間に理解されないことの不満、不遇を書き散らし、ルサンチマンをかこっていただけなのに対し、天心は時の政府に、そして美術界に真っ向から対峙しました。「日本のためになる」と信じた己の信念に基づき、策を講じ、行動しました。美術為政者という恵まれた立場にあったことを差し引いても、天心の意志の強さと行動力には敬服します。


 その後、1904(明治36)年、天心はボストン美術館のために東洋の美術品を収集するキュレーターになります。1910(明治43)年には、同美術館の中国・日本美術部長に就任しました。
 2000年12月にボストン美術館を訪ねたとき、私はアジア部門の充実っぷりに目を見張りました。外国の美・博物館に行くと、アジア部門、特に日本部門はどうも展示の仕方が適当というか、「えぇっ、これをこうまとめちゃうの!?」とか「仏像や仏具をそんなふうに置くなーっ!」とか気になってイライラするので、時間がない場合、飛ばすところの筆頭だったんです。ところが、ボストン美術館の日本部門の良品の揃いっぷりと、系統立てられているだけでなく、仏像・仏具に配慮された展示のすばらしさに、「おおっ!」と瞠目しました。それが、そもそも天心に興味をもったきっかけです。
 たぶん、ニューヨークのメトロポリタン美術館の日本部門も、ボストン美術館の展示を参考にしていると思うんですよね。同じ匂いがするから……。


 天心の目は、ついに自分の論を理解することのない日本を離れて、外国へと向けられました。せめて日本の美術と文化を正しく列強筆頭のアメリカに伝え、欧米諸国の日本ひいてはアジアを軽んじる流れを是正したい。ボストン美術館の日本部門に立ちこめる「真摯さ」には、天心の精一杯の祖国・日本への想いが込められているように感じます。


 天心が生きた時代から一世紀が経ちました。現代において、天心が唱えたことが理解されるかと問われれば、私は「否」と答えます。
 ただ、仏教美術をはじめとする歴史文化財の保護と修理・保存に彼の意思が受け継がれていることは事実であり、あちらこちらを旅して文化財を観るたびに「彼がいてくれてよかったなあ」と思うのです。


 このたびの水戸・北茨城旅行は、水戸行きを友人、北茨城行きを私が提案しました。このふたつの土地になんらの結びつきも意図していなかったのですが、徳川光圀岡倉天心には共通点があったのですね。まったくもって、恐れ入谷の鬼子母神。天網恢々粗にして漏らさず。事実は小説より奇なり。私たちの旅は、なにかしらテーマ性があるようになるらしいです(笑)。
 ひとつご注意さし上げますと、ここに書いた私の岡倉天心像には誤解があるかもしれません。というのは、天心についてきちんと研究したわけではないからです。多分に「私感 岡倉天心」になっていますので、もし天心に興味をもたれた方がいらっしゃいましたら、彼の著作や彼に関する研究書を読まれてください。ここに書いたことを鵜呑みにしちゃいやんということで、よろしくお願いいたします。
 

NHK歴史秘話ヒストリア
http://www.nhk.or.jp/historia/

早稲田大学学術情報データベース「拓本の取り方」ページ
http://www.littera.waseda.ac.jp/takuhon/torikata.html

水戸商工会議所サイト『【水戸】郷土いいとこ再発見』特産品・地場産品「水戸の宝」
http://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/tokusan/01.html

岡倉天心の仏像保存の考え方については以下のページが詳しいです。
イマムラデザインT2「web magazine 笑って!WARATTE −No Smile No Life」
「日本人の心を守れ 岡倉天心廃仏毀釈からの復興」

http://waratte.nosmilenolife.jp/edn/edn080813.html