Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

『血界戦線』と9.11の私的関係



 1990年に公開された『ダイ・ハード2』には、テロリストにより飛行機が墜落させられるシーンがあります。このシーン、私は「まさか、まさか」と思いながら観ていました。まさか本当に大型旅客機を乗客乗員ごと地面に激突させ、炎上させるなんて、実際に目の当たりにするまで信じられなかったのです。

 ずっと上空で旋回待機させられ、燃料が尽きかけ、ようやく着陸できると安堵した乗客乗員たち。けれども仕組まれた管制指示により、地面がどんどん迫ってくるのをただ見ているしかなく、死の恐怖を味わいながら最期を迎えたのです。事故であったとしても、飛行機の墜落は凄絶に酷いものです。それが人の手で為されるさまが描かれるとは!

 たとえフィクションでも描いていいことと悪いことがあると思ってきた私にとって、『ダイ・ハード2』のあのシーンは「決してあってはならないこと」として、絶対に映像化されるべきではない、受け入れられないものでした。それも、そのシーンがただテロリストの非情さを表現し、マクレーンがテロリストをやっつけてもいい言い訳として置かれたことに、それまで映画人が守ってきた表現上のモラルの一線が越えられてしまったという、危機感を覚えたのでした。



 飛行機が人為的に墜落させられる。それが生理的な恐怖として心のなかに植え付けられてから11年。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こりました。

 11日深夜、たまたまテレビをつけたら、ニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに旅客機が衝突する模様が流れたのです。最初は、また悪趣味な映画の紹介映像かと思いました。まさか、本当に、現実に、こんなことを行なえる人間がこの世にいるとは思いもよらなかったからです。



 2000年から2001年に移る日、21世紀の幕開けの日、私はニューヨークにいました。夜はタイムズ・スクエアのニューイヤー・カウントダウンに参加するつもりで、その前に16時出航のサークル・クルーズの船上から年の瀬のマンハッタンを眺めていました。





2000年12月31日、世界貿易センタービルWTC)を中心としたワールドトレードセンター・コンプレックス



 水上から見るロウアー・マンハッタンには、世界貿易センターのツインタワーを中心に、まさにレゴブロックで組まれたようなビル群が屹立していて、エンパイアステートビルクライスラービル、トランプ・ビルなどに比べると「モデルハウスみたいなビルだな」と感じたことを覚えています。



 世界一を誇った超高層ビルに旅客機が突っ込み、その衝撃で煙を上げながら巨大な建物が崩壊していく。テレビの中の映像がほんの数時間前に起こった現実だと悟ったとき、フィクションにさえ恐怖と怒りを感じた事態に、さらに超高層故に逃げられず、炎に追われて飛び降りるしか選択できなかった人々の恐怖、あまりの理不尽への怒りが加わり、座っておられず、テレビの前をただウロウロと歩き回りました。その間、「世界の良心が守ってきたモラルの一線が越えられた。『これだけはしてはいけない』と歯止めをかけていた“人類の統一意識”のようなものが失われた。良き世界は終わった。この瞬間から世界は変わる」という思いが頭の中を駆け巡っていました。

 当時、マンハッタンに住む友人とニュージャージーからマンハッタンに通勤する友人がおり、ふたりの安否を気遣いながら、そして無事を聞いて安堵しながら、私の常識で理解できた世界の終わりと得体の知れない世界の始まりとを感じたのでした。





2005年5月、世界貿易センターのツインタワー跡地「グラウンド・ゼロ





 『血界戦線』を読んだとき、「ああ、これは」と思いました。ここで描かれる「紐育(ニューヨーク)大崩落」、そして「再構成されたヘルサレムズ・ロット」こそ、私が9.11の前後に覚えた感覚そのものだ、と。

 ある日突然、常識を超えた“思考”が現世のニューヨークを崩落させ、常識を超えた“異界(ビヨンド)”が組み込まれ、常識を超えた“異界人”が隣人となります。異界人は、人類(ヒューマー)以上の力を持ち、罪の意識なく人類を傷つけ、屠ります。弱肉強食の理において、力で勝る彼らは捕食者、人類は被食者。異界人が人類の存在に配慮するなどありえないことでした。

 そんな状態から、人類は異界人とコンタクトを取り、「クライスラー・ガラドナ合意」で食人を禁止するなど、対話で生き延びる方法を模索します。

 その「合意」を無視して人類を襲う異界人や退屈しのぎに世間を騒がせたい愉快犯たる堕落王たちと戦うために結成されたのが、超人秘密結社「ライブラ」。もともと歴史の裏側で人類を襲う吸血鬼「血界の眷属」と戦ってきた、特殊な戦闘能力を備えた「牙狩り(ヴァンパイア・ハンター)」から成るライブラ(天秤)が、“世界の平和”ではなく、“世界の均衡”を守るために存在するというところが大いなるポイントだと思うわけです。

 平和というのは、相互理解と良心と善意と我慢と忍耐がなければ成立しない、理想的状況というより幻想的状況。それこそ仮想敵でも作って意識統一でもしないかぎり、たとえば一組織内でも平和状態を維持するのは困難です。もはや平和など望むべくもないこの世界で、それでも全世界的な戦争が始まらないようにするにはどうするか。国と国、組織と組織、思想と思想の均衡を図るしかない。

 均衡という言葉には、9.11後の世界が目指すしかない方向が、諦念を含ませて示されているように感じます。



 同時に、紐育大崩落から3年。異界人が隣を歩いていようと、頭上を飛んだり跨いだりしようと、街なかで騒ぎを起こそうと、共に暮らすことを選び、慣れてしまう人類の強かさ、それでも異界人を差別する狭量さとその異界人に簡単に殺されてしまう脆弱さが描かれているところが、『血界戦線』のテーマたる“day in, day out”(日常話)なんだな、と。



 さらに、ライブラのメンバーが血液を変質させた対「血界の眷属」仕様の人間兵器であり、流す血が武器になるというところに、敵を屠るには自身も血を流さなくてはならないという戦いの理が見え隠れして、そのあたりの正々堂々さが好きだったりします。



 SF伝奇アクションとして充分に面白い。吸血鬼や人狼などの伝説、クトゥルフ神話菊地秀行の「魔界都市<新宿>」、アメコミヒーロー、古今東西のアクション映画やアメリカのTVドラマのノリなど知っていれば、細かいところで楽しめる。

 それに加えて、テレビ越しとはいえ目撃してしまった9.11のショックを引きずる私には、『血界戦線』はあのとき崩壊したままのなにかを、諦念を漂わせながらも痛快に蹴散らしてくれる、慕わしい作品なのです。





beyond= …を越えて、…の範囲を越えて





血界戦線 1 ―魔封街結社― (ジャンプコミックス)

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