Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

「新宿御苑 森の薪能」から『葵上』の巻

 昨日の「第25回 新宿御苑 森の薪能」の続き。能『葵上』の巻です。
 平安朝のイケメンと言えば、「虚構の源氏、現実の業平」。能楽作品『葵上』は、光源氏を主人公とする『源氏物語』の第9帖「葵」に題材をとっています。しかし、おもしろいことに、『葵上』には光源氏も葵上も登場しません。


 光源氏の正妻・葵上(あおいのうえ)は、重い病の床にありました。「これは物の怪の仕業だ」。源氏をはじめ家人たちは手を尽くしますが、葵上の苦しみは治まりません。そこで、照日(てるひ)の巫女を招き、梓弓による口寄せで物の怪を召喚し、正体を突き止めようとします。
 梓弓の音に惹かれて出現したのは、破れ車に乗った貴婦人。召使いの青女房にかしずかれたその人は、光源氏の愛人である六条御息所(みやすどころ)の生霊。それはやがて切々と思いを語り始めます。
 源氏が、左大臣家の娘で気位の高い年上の妻・葵上と打ち解けることができず、不満を抱えて自分に慰めを求めてきたこと。葵上とは形だけの夫婦で、源氏の愛は自分にあると信じていたら、葵上が懐妊し、それとともに自分のもとから源氏の足が遠のいたこと。
 せめて賀茂祭葵祭)の御禊に参列する源氏の姿を見ようと、身分を隠して質素な牛車から見物していたら、後から来た葵上の牛車に場所を取られたうえ、彼女の従者たちに車を壊され、放り出される侮辱を受けたこと。それは、大臣の娘であり、元皇太子妃である自分にとって、堪え難い屈辱であったこと。
 数々の恨みが凝った御息所はついに生霊となり、夜な夜な後妻打ち(うわなりうち)で葵上を苦しめ、魂を抜き取ろうとしていたのです。
 御息所の怨念に恐れをなした源氏の家臣たちは、強力な法力をもつ修験者・横川小聖(よかわのこひじり)を呼びます。
 小聖が祈祷を始めると、御息所の生霊は鬼女の本性を現わし、打ち杖で葵上を打ちすえようとします。そうはさせじと数珠を絞り、調伏の祈りを唱える小聖。激しい攻防の末、祈祷の言葉の力で怨恨が消滅した御息所は、悟りを得て人に戻るのでした。


 前半の御息所は、葵上との「車争い」に敗れたときの恨みに捕われ、そのときに壊された牛車から出られずにいます。
「三つの車に法の道 火宅の内をや 出でぬらん 夕顔の宿の破れ車 遣る方無きこそ悲しけれ 浮世は牛の小車の 浮世は牛の小車の廻るや報いなるらん」
法華経に言われる羊車、鹿車、牛車の三つの車に乗って仏の導かれる道を行けば、苦しみばかりのこの世から逃れることができるのでしょうか。でも、このみすぼらしい破れ車ではかなわないことですね。心のやり場もない今の私はなんと哀しいことでしょう。浮世(憂き世)に憂いしか感じられないのは、牛(憂し)の小車の輪のように巡る因果の報いなのでしょう)
 人を羨むなど浅ましいことだとわかっていても、葵上の姿を見ると恨まずにはいられない。深い教養と気高い心根をもつ貴婦人たる御息所が、浅ましい、情けないと自分で重々わかっていながら、それでも抑えきれない恋心と嫉妬に引き裂かれるさまが、所在なげに佇む姿と控えめな所作、押さえた声から伝わってきます。
 しかし、横たわる葵上を目にするなり、自制をかなぐり捨てて、手にした扇で本妻が妾(めかけ)をめった打ちにする「後妻打ち」をくり出す御息所。青女房に「そんな下々の者のような真似を」と諌められても止まりません。
 後半、横川小聖と対峙し、貴婦人がまとう豪奢な唐織(からおり)を脱ぎ落として鬼女となった御息所は、打ち杖を振り回して戦います。理性を失った姿のなかにも、女性らしさや高貴なる品をいかに表現するか。ここは演者の見せどころですね。

 この『葵上』は、王朝の雅を留めながら、スペクタクルな変化と躍動感たっぷりの、能のなかでも華やかさと激しさを併せ持つ珍しい演目ではないでしょうか。


 ちなみに源氏は宿直(とのい)で留守。臣下たちの会話に登場するくらいです。葵上に至っては、舞台に敷かれた小袖がソレ。タイトルロールが、着物一枚……。
 この「着物一枚」こそが、世阿弥が伝えた『風姿花伝』の心。すべてを見せることが美なのではなく、観客に想像させる工夫こそが美を生むという、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」の精神が、こうした小道具にも見受けられます。

 篝火のせいで赤く見えたのですが、御息所の般若面はたぶん「白般若」。般若面には肌の色が赤みがかった「般若」と、白く塗られた「白般若」があります。能楽では「白」は高貴な色。「般若」は『道成寺』の清姫、『紅葉狩』の紅葉、『安達原』の黒塚の鬼女などに使われますが、「白般若」は基本的に『葵上』の六条御息所にしか使われません。
 また、鬼女の装束は、下着である、三角形の模様が連なった摺箔(すりはく)をあらわにします。三角形の連なりは蛇の鱗を表わし、女を鬼に変える嫉妬や執心は蛇の性(さが)であることを示しています。
 しかし、今回の鬼女姿の御息所の小袖は、摺箔ではなく、秋の草花が描かれた縫箔(ぬいはく)だったなあ、とか。定番の三角鱗模様の摺箔ではなかったことに、粋を感じました。
 鬼女になる前の御息所の面も、「泥眼(でいがん/恨みをもつ女性面)」がよく使われるところ、「増女(ぞうおんな/天女や品格の高い女性に使われる。わずかに憂いを帯びた表情が特徴)」ではなかったかと思うのですが、私の席からは細かいところまでチェックできませんでした。「泥眼」にしても、おどろしさより美しさが印象に残る面でした。
 その舞台における装束や面、道具を決めるのは、シテ役(主人公)を務める演者。この場合は、六条御息所ノ生霊役である観世銕之丞ですね。
 能楽ファンはもとより、新宿御苑での薪能という珍しさに集まる一般客(私だ、私!)にも能の美を文字どおり目一杯アピールできるように考えられた結果なのかなあと思いましたが、どうでしょう。

 さて、『葵上』の後の御息所の物語は、『野宮(ののみや)』に引き継がれます。執念物の『葵上』の激しさから一変して、『野宮』は秋の嵯峨野のしっとりとした風情のなかに哀愁が漂う静かで優美な能です。ご覧になる機会がありましたら、これが『葵上』の般若の後の姿と思えば、感慨もより深くなりますか、と。


 冷え込んだ時期で、コートを着ていてもうっすらと寒さを感じるくらいでしたが。秋の虫の音を聞きながら、篝火に赤く揺れる能舞台を鑑賞するのもいいものです。
 『葵上』も『業平餅』も第一級の能楽師狂言師による、ほどよく緊張感があり、ほどよく力の抜けた、安定感が気持ちよかったですし……。ただ身を任せていれば、酔わせてくれる。そういう舞台はなかなか貴重です。
 来年、演目が合えば、また行ってみたいと思います。


<追記 13. 1.2010>
 帰省したおりに母に話してみたら、前シテの六条御息所ノ生霊の面は「若女」ではないか、とのこと。「増(ぞう)ではないでしょ」と言い切ってくれたので、「泥眼」でなければ、「若女」だったのかな……。


「the能ドットコム」サイト
http://www.the-noh.com/jp/index.html

「能 喜多流大島家」サイト内「鑑賞の手引き 葵上」
http://www.noh-oshima.com/tebiki/tebiki-aoinoue.html