Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

映画『東京喰種 トーキョーグール』前半戦 こんな「変身譚」、観たことない!



 ※ ネタバレしています。映画を未見の方はご注意ください。

 ※原作未読です。以下は、映画と映画のパンフレットを元にした「感想」です。原作既読の方には、映画と原作の(当然起こりうる)差異による解釈の違いを寛容な目で楽しんでいただけましたら幸いです。






 実写映画『東京喰種 トーキョーグール』は、永近英良(ヒデ:小笠原海)を巡る西尾錦(ニシキ:白石隼也)とのバトルで倒れた金木研(カネキ:窪田正孝)が「肉」を与えられて目覚めるところで、前半部と後半部の二部に分けることができると思います。

 今回は前半部の感想をつらつらと書いてみます。



 普通の人間である主人公がなんらかの事情で「人間ではないもの」になってしまうシチュエーションを扱った作品は、ヴァンパイア(吸血鬼)ものをはじめ、映画なら『ザ・フライ』や『スパイダーマン』など枚挙にいとまがありません。

 私が仕事で関わった『薄桜鬼 〜新選組奇譚〜』も、時代に追い詰められていく新選組の隊士たちが、変若水を飲み、羅刹(半吸血鬼)に変化(へんげ)するという物語でした。



 映画『東京喰種』もそうした物語のひとつ。と言えば、「主人公が、人間であったときの記憶(精神)と(人間の敵となった場合や人間の恋人ができた場合など特に)人間ではなくなった現実とのギャップに苦悩し、葛藤する話でしょ」とまとめられそうだし、確かにテーマはそうなのですが、この映画はひと味違うんですね。

 人間から人間ではないものへの変化。これまで「自分は人間なのか、違うモノなのか」と精神的に葛藤してきた主人公は多々あれど、その変化をこの映画ほど「生理的な苦しみ」を通して描いた作品はあっただろうか。私は寡聞にして知りません。



 人間を捕食する、人間の姿をした喰種(グール)。「大食い」と呼ばれる喰種・神代利世(リゼ:蒼井優)に襲われたカネキは、事故に遭遇して死んだリゼの内蔵を移植されて一命を取り留めます。目覚めたカネキを襲ったのは、「食べられない」恐怖でした。

 これまで口にしてきたすべてが「馬の糞」のような味になり、それでも無理に飲み込むと身体が受け付けず、すべて吐いてしまう。嘔吐の苦しさは私も知るところですが、それが食べる行為にもれなくついてくるというのは、想像しただけで胃が絞られる心地がします。

 それでも食べないと当然飢えます。喰種が飢えを満たすには、人間の肉を食べること以外にありません。ジェリコーの名画「メデューズ号の筏」や映画『生きてこそ ALIVE』の元となった実話などを引き合いに出すまでもなく、飢餓は「生きるために(人間を)食べるか、食べずに死ぬか」という生物として究極の選択をカネキに迫ります。



 カネキを演じた窪田さんの凄みをまず感じたのは、この飢餓の表現。現代人のほとんどがそうであるように、窪田さんも生きるか死ぬかの飢餓状態に追い込まれた経験などないはずなんですよね。

 「自分には人間を殺せない(=食べ物を手に入れられない)」とわかっていても、夜の町を徘徊し、往来する人間の剥き出しの腕や足を凝視し、涎を垂らしながら舌舐めずりをするカネキ。ふらふらと足元がおぼつかないゾンビのような姿は、理性が失われ、生存本能にただただ引きずられるさまをこれでもかと見せつけてくれます。それは、読書好きで引っ込み思案だったカネキだからこそ、不気味さも痛々しさも倍々増の壊れっぷり。



 つい『ジョーカー 許されざる捜査官』の椎名高弘を挙げてしまうのですが、窪田さんは本当に「狂気」の芝居が上手い。役のためにここまで理性のタガを外してしまえる俳優さん、ちょっといないと思います。



 人間が人間ではないものに変わる。それを悲劇に描いた作品は多々ありましたが、『東京喰種』を観たあとだと、それらはどこか「主人公の宿命」のような、ヒロイックファンタジー的な描写だったと感じます。吐瀉物に塗れ、飢えにのたうち回り、涎を垂らして徘徊し、「助けてくれ」と土下座し、今は食べられなくなった食べ物を投げつけられる、変身譚のこんな主人公、初めて見ました。



 飢えに苦しんで苦しんで苦しんだ挙句に、一杯のコーヒーに辿り着く。カネキが、また嘔吐の苦痛に襲われるんじゃないかと怯えながら口をつけていくシーンは、絶望に塗りつぶされた真の闇に、淡い光が灯るようでした。実際、あのシーンは、救いの光が灯る、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「悔い改めるマグダラのマリア」(ナショナル・ギャラリー蔵)を見るようでしたね。



 さらに、「肉」を受け取りはしたものの、食べるか食べないかで逡巡するところ。飢えに負けて冷蔵庫から取り出した肉の、まず匂いを嗅ぐんですよね。ここで『ふがいない僕は空を見た』を思い出しました。母親に生活費を持ち逃げされた福田良太が空腹に耐えかねてコンビニの弁当を手に取るシーンでも、福田役の窪田さんはまるで舐めるかのように匂いを嗅ぐのです。

 自分で食べることを禁じたモノの匂いを嗅ぐ、という芝居はどこから生まれたものか。猫や犬といった動物は目の前にあるものについてまず匂いを嗅ぎますが、つまり生存本能=動物的本能という表現なのでしょうか。これ、窪田さんのアイデアだとしたら、とんでもない役者さんだなと思います。



 さて、窪田さんがここまでカネキの追い詰められっぷりを映像に刻んでくれたおかげで、人間としての倫理観や記憶を持ちながら、人間を捕食しなければならなくなったカネキの悲劇はもとより、観客は人間しか食べられない喰種の悲劇も理解します。

 人間を襲えない笛口親子の気持ちや、そのふたりに「肉」を与える芳村(村井國夫)の「喰種の駆け込み寺」のリーダー的な人望、友人の心尽くしの肉じゃがを嘔吐の苦痛覚悟で食べる霧嶋菫香(トーカ:清水富美加)のやさしさ、仲間のために黙々と死体を探しては持ち帰る四方蓮示(柳俊太郎)のストイックさ。
 カネキの苦しみを見てきただけに、喰種の助け合いのシステムや思いやりを観客も救いに感じて、リゼやニシキを通して喰種に忌避や恐怖を感じていたのが、一気に喰種側に気持ちを持っていかれる。まさに監督や窪田さんの「計画通り」なわけですね(笑)。そして、主観次第で「善」と「悪」が一瞬にして入れ替わる、この危うさこそが、映画『東京喰種』の裏テーマではないかと感じています。



 立川シネマシティの「極上爆音上映」で鑑賞したときは、病院で目覚めたカネキの腹の虫の音はきゅるきゅるくらいだったのが、それからずっと低音通奏のように鳴り続けて、ニシキとの戦いのあたりではぐるぐるとまるで喰種の唸り声のようでした。それが、「肉」を与えられてぴたっと止むんですね。赫子(かぐね)を出現させたとき以上に、カネキが完全な「半喰種」になったことを感じさせて切なかったです。



 前半部だけでこれだけ書くことのある映画『東京喰種』、恐るべし! この映画はたぶん、後々「劇場公開されているときに観ておけばよかった」という作品になりそうです。「だったら、今観ればいいじゃん!」ということで、未見でこれを読んでしまった方は、ぜひ劇場へ行かれてください。





 後半部は追々。『サイボーグ009』などを見て育った世代にとっては、「目覚めると人間ではなくなっていた」はイコール「ハイブリッドな人間兵器にされた」なんですよね。意味ありげに患者の枕元に立っている医者は要注意です。

 というあたりを書こうと思っています。





公式サイト:http://tokyoghoul.jp/