Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

映画『東京喰種 トーキョーグール』延長戦 ふたつの「この世界は間違ってる!」



 ※ ネタバレしています。映画を未見の方はご注意ください。



 ※原作未読です。以下は、映画と映画のパンフレットを元にした「感想」です。原作既読の方には、映画と原作の(当然起こりうる)差異による解釈の違いを寛容な目で楽しんでいただけましたら幸いです。





 劇場版『東京喰種』で「君は人間と喰種、ふたつの世界に居場所を持てる、ただひとりの存在なんだよ」という芳村店長の言葉の解釈に悩んだことは、先の感想で書いたとおりです。
 そのセリフと並んでいろいろ考えさせてくれたのが、亜門鋼太朗(鈴木伸之)と金木研(カネキ:窪田正孝)の共通のセリフ、「この世界は間違ってる!」です。



 亜門の「この世界は間違ってる」は、CCG(喰種対策局)の捜査官としての信念ですよね。上司の真戸呉緒(大泉洋)もですが、彼も過去に喰種に身内か親しい人を殺されたのではないかと想像しています。喰種に目の前で両親を殺されたという男の子を見るときの目が、憐憫より、同じ経験をした者としての同情を湛えているように思えたので……。

 そうでもなければ、「喰種がいるこの世界は間違っている。歪めている喰種を駆逐しなければならない」という思考回路にはなかなかならないと思います。

 たぶん、彼にとって喰種とは人間を捕食する猛獣か怪物で、人の姿をしているのは「捕食のために人間に擬態している」くらいの感覚なのでしょう。真戸の影響が大きそうですが、神代利世(リゼ:蒼井優)や西尾錦(ニシキ:白石隼也)の人間を捕食対象としてしか見ていない冷酷さや路地裏でサラリーマンらしき人間を食べていた喰種の姿を見ると、そういう認識になるのも無理はないと思わされます。



 映画『東京喰種』は、永近英良(ヒデ:小笠原海)を巡る、ニシキとのバトルで倒れたカネキが「人肉」を与えられて目覚める場面で、前半部と後半部に分かれると書いてきました。

 それは、カネキが半喰種として覚醒したことで「あんていく」を入り口に喰種の世界に入っていく前後ではあるのですが、同時に映画としての視点が「人間から見た喰種」から「半喰種として見た喰種」に変わるポイント(転換点)でもあります。



 前半部は、自分に恋心を抱いている青年に気のある素振りを見せて有頂天にさせ、喰種の本性を見せて恐怖と絶望のどん底に叩き込むというサディスティックなリゼや、サークルの先輩後輩として親しく接しておきながら、いとも簡単に食糧にできるニシキを通して、人間にとって喰種がどれだけ残忍極まりない捕食者なのかを見せつけます。あるいは、誰かの家族であっただろうサラリーマンを殺して食べながら「不味い」と言う喰種や、その腕を拾い上げて躊躇もなく口をつける霧嶋菫香(トーカ:清水富美加)もまた、人間の敵である喰種でしかありませんでした。

 ここまで観れば、観客は「喰種は人間にとって血も涙もない捕食者」と認識し、亜門の「こんなモノが存在する、この世界は間違ってる」という信念に同調し、そんなモノになってしまったカネキを哀れに思うはずです。



 後半部は、主人公のカネキが「人肉」を食べてしまったという事実が、さり気なく観ている者の視点を「人間」から「喰種」に変えます。その導入、「これから観客の皆さんを喰種の世界にお連れしますよ」という口上が、芳村店長の「君は人間と喰種、ふたつの世界に居場所を持てる、ただひとりの存在なんだよ。『あんていく』に来なさい。ここで私たちの世界を学ぶといい」という言葉なんですね。



 「あんていく」でカネキが、そして観客が知るのは、喰種にとってこの世界は生きづらいという事実。

 人肉しか食べられないのに、食べようとすると人間に追われ、「あんていく」のような駆け込み寺でコーヒーを飲んで飢えを紛らわせるしかない喰種たち。人間に怪しまれないように、人間を観察して言動を真似て、そのためなら拒絶反応を起こす人間の料理さえ口にしなければならない。人間を狩れない喰種もいて、彼らは「あんていく」が回収した自殺者の死体を分け与えられて命をつないでいる。常にCCGの存在を警戒して、喰種と見抜かれたら、人間が来れないような劣悪な環境の場所に身を潜めなければならない。

 なにより、人間を食べないと生きていけない「種(しゅ)」なのに、喰種のなかにはそれに罪悪感を抱いている者がいること。



 カネキは、そして観客は、喰種は「そういう生物」なのに、人間が持たない「食べるために、生き物を殺す罪悪感」を食べるたびに味わっているのだと知り、実は人間のほうが傲慢なのではないかと思うようになります。

 野菜、果物、魚介、牛・豚・鶏……生きるためにあらゆる命を刈り取って食べていながら、それを意識することのない、「綺麗な存在」でいられる人間たち。

 対して、生きるために食べないといけない人間が、たまたま同じような容姿、同じような頭脳を持ち、言葉を通して意思疎通ができる存在であったがために、食物連鎖の頂上にいながら罪悪感を持ってしまった喰種たち。



 「なぜ人間だけが生きることに罪悪感を持たず、綺麗な存在でいられるのか」「なぜ人間だけが、生きるために自分たちを害するものを『歪んだ存在』と断罪できるのか」。そして、「誰もがこの世界に生まれてきた以上、生きる権利、幸せを目指す権利をもっているのに、踏みにじる人間は傲慢にすぎるのではないか」。



 映画を最初に鑑賞したときは、カネキの「この世界は間違ってる!」という叫びは、笛口親子、特に雛美(ヒナミ:桜田ひより)のような、どうしようもない罪悪感を抱えている存在さえ殺そうとする理不尽に対してのものだと思っていました。

 でも、鑑賞回数を重ねるに連れ、それだけではない思いがこめられているような気がしてきました。



 なにより、カネキこそ、人間でありながら、喰種の臓器を移植されたことで半喰種になってしまった、本人にとっては理不尽極まりない存在なのですよね。そして、「そういう生物」にされてしまったのに、人間=亜門と死闘を繰り広げなければならない不条理。

 また、「何もできないのは、もうイヤなんだ」とヒナミたちを助けるために戦うことを決意したのに、喰種の本能に飲み込まれて、戦う意味が簡単に「助けたい」から「欲」に変わってしまう自分への嫌悪。

 さらに、娘の目の前で母親を殺しておきながら、自分たちこそ正義と疑うことさえしない、傲慢な人間の代表のようなCCGのハト。

 もう、いろいろな思いが入り混じっての、そして、それらすべてを「どうしようもないこと」と決めつけて諦めを促してくる世界に対しての、「この世界は間違ってる!」ではなかったかと思うようになりました。



 亜門には衝撃的だったでしょうね。「この世界は間違っている! 歪めているのは貴様らだ!」と言った相手に、同じ言葉を返されたのですから。それも、亜門を喰おうとしながら、赫子で彼自身の頭を思いっきり殴ってそれを止めた喰種に。

 亜門にとっては「人間を喰うためなら、人間のふりだってする獣(けだもの)」のはずの喰種が、「獲物(自分)を喰おうとしていたのに、自身を攻撃してまで止めた!?」こと、自分と同じ「この世界は間違っている」という感覚を持っていたことに、既成概念が覆されるショックを覚えたのではないかと思います。

 草場や真戸を殺されたことで彼の喰種への憎悪は募るでしょうが、「害獣」から「人間の心を持つモノもいる」くらいには認識に幅ができたのでは。亜門にそれが吉と出るか凶と出るか、彼に関してはここからが面白くなる予感がします。





 映画『東京喰種』はキャストがすべてはまり役で、監督やキャスティングコーディネーターの原作愛とそれぞれの俳優について演技の性格や幅への理解の深さに驚きました。

 なかでもカネキ役の窪田さんと亜門役の鈴木さんは、「この世界は間違ってる!」というこの同じセリフを、まったく思いの違うものとして印象づけるに適した配役だったと思います。

 鈴木さんの亜門は、ただ真戸の喰種への憎悪に当てられて「喰種は歪んだ存在」と唱えているのではなく、自分の中に確固たる正義があって、朴訥に思えるほどそれを信じているがうえの言葉として聞き取れました。

 生真面目が服を着て歩いているようで、真戸の隣ではちょっと猫背気味になっちゃうかわいらしさのある亜門。鈴木さん以外の亜門はちょっと考えつかないくらいに、「はまってた〜!」と思います。

 一方、窪田さんのカネキは、半喰種になるまで考えようとも知ろうともしなかった世界を知ったことで、考えようとも知ろうともしない人間に決めつけられ、諦めさせられる世界を「間違っている!」と叫んだような印象をもちました。

 カネキ、引っ込み思案で、およそ生命力が足りない感じに見えますが、本をよく読んでいるからか、理解力と思考力は並々ならぬものがあるんですね。窪田カネキからは文学系の頭の良さを感じます。

 どちらも「いい人」オーラが強いので、このふたりが死闘しなければならない事態が切ないんだなと、何回目かの鑑賞でしみじみ思いました。





 以上が、映画『東京喰種』で私が気になったところ。ブログ3回分のエントリーになっちゃいました。これまで、映画館に5回も観に行った映画はないし、ここまで長文で感想を書いた作品もありません。なぜここまでハマったものか、今ひとつわからないのです。が、原作マンガを実写化するにあたっての方向性、2時間の映画として物語を簡潔にまとめる一方で、要所に含みをもたせたセリフを置いた脚本、ただマンガの画面や脚本をなぞるだけでなく、生きている人間が演じるが故の動作のつなぎ、感情表現の間合いが「生々しい」俳優陣の演技に、まず引き込まれたのかな、と考えています。

 さらに、自在置物の超絶技巧を彷彿させるカネキの赫子の鱗の動きをはじめとする、日本的なVFXと俳優陣や背景との親和性。小さめのシアターに移ってから際立つようになった音響の繊細に心配りがされた美しさ。観る人の耳を邪魔せず、控えめながら、場面にエモーショナルな色をつける音楽。なにもかもが、最高レベルで、絶妙なバランスを保っていることが、何度も観たくなる気にさせる理由かもしれません。



 ただひとつ、パッケージになるときになんとかなっていればいいなあと思うのが、真戸が誘い出したヒナミと顔を合わせるところから川辺に至るまでの時間経過、および真戸の連絡を受けた亜門がカネキと遭遇するまでの時間経過。

 日中からいきなり夜になっていて、「真戸は何時間ヒナミを追い回したんだ!?」とか「亜門は東京のはずれまで遠征してたのか!? でもまだ日の高いうちにカネキが亜門の車を目撃して追ってるよね」とか、気になって仕方がありません。

 あの時間経過のうちに何事かが起こっていて、でも、たとえば尺の関係でカットされたのだとしたら、ディレクターズカット版としてでもパッケージに入れてほしいなと思っています。