Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

惜しい気持ちが今でも消えない巨編、「最終戦争」シリーズ

 私のマンガ読書の始まりは、中学時代、友だちの家で読んだ『超少女明日香』(和田慎二白泉社)と別の友だちから借りた『幽霊狩り』(曽祢まさこ/講談社)でした。家ではマンガを禁止されていたので、友だちの家に遊びに行ったときにしか読めなかったのです。
 『超少女明日香』は1巻につきワンシーン、変身後の明日香のセミヌードが描かれていて、その美しさにドキドキしながら見入ったものです(笑)。『幽霊狩り』は、盲目の少年ダニエルが“見る”闇の世界にゾクゾクしました。ダニエルの唯一の理解者、お兄さんのアーサーが好きでしたね。今でもホラーサスペンスの傑作だと思っています。


 高校生になってお小遣いからこっそりコミックを買い込むことを覚え、『スケバン刑事』(和田慎二白泉社)、『みき&ユーティ』『あいつ』『エイリアン通り(ストリート)』(成田美名子白泉社)、『超人ロック』(聖悠紀少年画報社)などが、ベッドの下に隠したダンボール製衣装箱の蔵書となりました。
 そのころにどっぷりハマったのが、山田ミネコの「最終戦争(ハルマゲドン)」シリーズ。それがどのくらいのインパクトだったかというと、当時の私の描いたマンガ絵はことごとく山田ミネコの描く目の大きいキャラクターに似ていたというくらい。
 記憶が定かではないのですが、たしか徳間書店から出ていた「パトロール」シリーズの第1巻『笛吹伝説(パイド・パイパー)』を読んで、すぐさま白泉社から出ていた『アリスと3人のふたご』『男爵夫人(バロネス)ラム』『スプーン一杯の愛で』『冬の円盤』『西の22』『暗黒の自我系めぐる銀河の魚』『緑の少女』を集めまくったような……(このうち、『男爵夫人ラム』『スプーン一杯の愛で』は「最終戦争(ハルマゲドン)」シリーズではありません)。東京三世社のA5判コミックまで手を伸ばしたのは、大学に入って、親がマンガ禁止令を諦めてからです。


 なかでもいちばん印象に残っているのが『緑の少女』。
 時は2800年ごろの日本。医療技術の発達により長い長い寿命を得た人びとは、生きることに倦み疲れていました。自然分娩で生まれる子どもは極少数になり、都市機能を維持するために、過去に死んだ若年者をその日その時に時間跳躍して蘇生させ、時間移民として生活させる。そんな対策も必要になっていました。


 秋吉唱(となえ)は自殺癖のある竪琴奏者で歌い手。彼女は絶望を歌い、聴衆を死に誘う危険人物として当局にマークされていました。偶然、自殺しようとする彼女を助けた志月竹流(たける)は、人工授精で最高の遺伝子をもつ者として生み出され、英才教育を施された画家。その天才的な画力で人びとに生命力を与えるような絵を描くことを期待されていた彼は、自分の絵の力で唱を自殺願望から救おうとします。しかし、その試みは失敗。
 唱の息子でタイムパトロールの西塔小角(おづぬ)は、絵を描くことを放棄した竹流を飛鳥時代の日本へ連れて行きます。退廃的な未来世界に比べて、生命力に充ち満ちた古の日本。そこで竹流が出会った安曇比女(あづみひめ)は、三角関係に悩み、かなわぬ恋に涙し、そして少女から美しく強い女性へと成長します。
 その変化を目の当たりにし、生命のもつ力強さと美しさを知った竹流は、今度こそ、生きる気力を失った未来世界の人々の希望となる絵を描き始めます。


 私の額田王へのイメージを決定づけた作品。さらに、長岡良子の「古代幻想ロマン」シリーズ(秋田書店)で止めを刺された感じ(笑)。マンガからの影響って大きいですね。


 山田ミネコの「最終戦争」シリーズは、白泉社東京三世社徳間書店朝日ソノラマ秋田書店と掲載誌どころか出版社をまたいで描き継がれてきた大長編SFです。まったく別の主人公、別の時代の物語で、シリーズ作品に見えなくても、実はつながっていました、「最終戦争」シリーズの年表に組み込まれていましたという、どこぞの『F.S.S.』並みに、いや、それ以上に寄木細工の秘密箱のような作品なのです。


 寿命が延びたことで人びとが生きる気力を失い、少子化が進み、都市機能が維持できない。そのために過去から夭折の運命にある者を蘇生し、移住させる、時間跳躍機の開発と時間移民計画。しかし、逆に未来世界を捨てて、過去の時代で生きようとする人びとが現われ、それを斡旋する犯罪組織が出現したことで、歴史の改変を阻止するために組織されたタイムパトロールの存在。
 一方で、死んだ女性を生き返らせ、仲間を増やす妖魔(デーヴァダッタ)の恐怖。男性の生気を食糧とする彼女らのおかげで、ますます世界人口は減少するばかり。「最終戦争(ハルマゲドン)」とは、このデーヴァダッタと人類との戦い……のはず。


 こんなにすばらしくSF的なギミックが散りばめられているのに、出版社の垣根を越えて長く長く続けられてきたのに、今ひとつマイナー感が漂うのはなぜなのか。
 これはあくまでも私感ですが、作者がキャラクター萌えに突っ走っちゃうとダメだよなあ、という。小角が主人公の「パトロール」シリーズで影(シャドウ)やドクター・レイクが現われたときから、小角と熾天使セラフィム)が主軸だった物語が軋み始めたんですよね。でも、このときはそういうものかなと思えたのです。
 けれども朝日ソノラマから刊行された『最終戦争伝説』と秋田書店の『最終戦争シリーズ』で、キャラクターが物語から離れて一人歩きを始めたような感があり、その行動がどうにも納得できない独りよがりなもので、とうとうついていけなくなったのでした。もしかしたら、変わったのは作者ではなく、読んでいる私の感じ方が年齢とともに変わったということかもしれませんが……。
 ただ、今でも惜しい作品だなあという印象は強いのです。シリーズ中、もっとも聡明なはずの尾鷹星野(せいや)がその聡明さと(大槻笑(えみ)が絡むこと以外での)沈着冷静さを保っていてくれたら、とか。小角と大槻真砂流(まさる)と伊津原永都(ながと)のそっくりトリオなメインキャラクターが、もうちょっと自分の立場をわきまえて行動してくれていたら、とか。特に真砂流の最期は泣けただけに、それからあとの彼には疑問符がいっぱいだ。


 作品中で生きているキャラクターたちを、その性格的な魅力のままに動かしたいという気持ちはわかるのです。が、その行動の動機やそこにあるはずの信念などが読者にも納得できるものとして伝わらないと、物語が追えなくなるんですよね。やはり作品のつくり手には、まず物語の最後を見越して筋立てをし、その芯がぶれないようにキャラクターを動かしてもらいたい。そんなことを切に思った作品でもありました。