Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

『HiGH&LOW THE MOVIE 3/FINAL MISSION』スモーキーという幻想 前編



 HiGH&LOW THE MOVIE 3 / FINAL MISSION』のネタばれありです。未見の方はご注意ください。



 I'll fight for my passion in life

 Give everything I have in me

  −from "Break into the dark"



 「自分の持てるすべてのものを与えたい。

  それこそが生きがい。そのために私は戦う」



 TVシリーズからスモーキーの“矛盾”が気になっていました。「俺たちは家族のため、生きることを決してあきらめない」と唱えるわりに、彼自身は生きようとしていないように思えました。

 シオンが掟を破ってまでレッドラムの製造に手を染めたのは、スモーキーの病気を治したい一心だったことを知りながら、「自分のためにすまない」と謝りはしても、そこまでの願いに応えようとはしません。

 ララもタケシもピーも医者にかかるよう口を酸っぱくして言ってきたはずです。実際、『THE MOVIE』で広斗に「このままだと、あいつ、死ぬぞ」と言われたララは、「わかってる。何度も言ってるんだけど……。命より家族が大切みたいだから」と答えています。

 無名街に侵入する者あらば、気配だけで追い立て、任意の場所に追い込んでいく。SWORDの他チームが持ち得ないワイドレンジフォーメーションが組めるからこそ、RUDE BOYS(以下、ルード)は「無慈悲なる街の亡霊」と呼ばれ、恐れられてきました。その司令塔であるスモーキーを失うことは、無名街が最大の防御を失うに等しいと、スモーキー自身わかっていたはずです。

 それなのに、なぜ病気を治そうとしなかったのか。



 『THE MOVIE3』で明らかになったのは、親に捨てられたことへのスモーキーの思いでした。
 生まれてすぐ無名街に捨てられたというスモーキーには、一応面倒を見てくれた人がいたと推察します。そうでなければ、幼子が生きていけるわけはありませんから。子捨てが後を絶たない無名街では、拾う人なく亡くなった赤子もいるでしょう。スモーキーは早くから「親は子(自分)が死んでもいいと思って捨てた」とわかっていたと思います。

 「この街に捨てられ、誰からも忘れられた」。生まれ落ちた世界で一番に愛してくれるはずの親に捨てられ、忘れられた自分は、この世にいない存在なのではないか。スモーキーの文字どおりの「無私」は、ここが端緒だったかと得心しました。



 無名街には子どもを売買する輩がいます。病気になっても、薬を買うことも医院に行くこともままなりません。荒んだ大人たちの憂さ晴らしに暴力を振るわれることもあったでしょう。飢えや暑さ、寒さをしのぐ術もありません。そうして何人もの子どもたちが姿を消し、そのなかにはスモーキーと知り合った子もいたかもしれません。

 物心ついたときから生と死の狭間にいて、喪失ばかりを味わう日々。そんなとき、泣いている女の子を見つけて、手を差し伸べた。すると、女の子は手を取ってくれた。「泣かないでほしい」と真心を見せれば、泣きやんでくれて、笑ってくれて、傍に来てくれる。

 家族というものを知らないスモーキーに誰が「家族」という言葉や概念を教えたのかわかりませんが、彼にとって、それが“家族”の始まりでした。



 ララという“妹”ができたことは、スモーキーを大きく変えたと思います。彼女を守るために格闘に強くなったでしょうし、敵を追い払うためのトリッキーな作戦などもどんどん編み出していったのではないでしょうか。

 また、彼女を“家族”にできた成功体験から、人たらしにも磨きがかかったんじゃないか、と……。



 無名街に捨てられた子どもは、親から「死ね」と言われたも同じ。その絶望を知るからこそ、スモーキーは子どもたちを“家族”と呼んで迎えました。それは家族に見放された子どもたちにとって、どれだけ大きな救いとなったことでしょう。スモーキーもまた、ララをはじめルードのメンバーに“家族(家長)”と慕われることで、自分の存在意義をつなぎ留めていたのだと思います。

 彼らに身を守る術を教え、無名街を守る方法を共に考え、彼らと無名街が一日平穏であればいい。誰も悲しむことなく一日を終えられたらいい。

 スモーキーが唱える「俺たちは家族のため、生きることを決してあきらめない。だから誰よりも高く飛ぶ」は、過酷な環境を生き抜きながら、さらに敵を警戒し、戦うルードのメンバーが、どんなに傷ついても、心折られても、死に捕らわれないよう鼓舞する「破魔の呪文」だったのかもしれません。

 では、スモーキーは生きることをあきらめていたのか。「あきらめ」とは、なにかしら望みがあって、それがかなわないときに生まれる感情です。先に「無私」と書きましたが、彼はこと自身に関して「〜したい」という欲求が、そもそもないように感じるのです。
 “家族”といないときの彼は、見張りがてら、無名街の一番高いところにひとり佇んでいるだけ。コブラがプロレス雑誌を読みふけったり、ROCKYが独特の女性の趣味を披露したり、村山がカラオケやバッティングセンターに行ったり、日向が酒を飲んでゴロゴロ寝ていたり、G-SWORDの頭たちは自身を楽しませる術を持っています。しかし、スモーキーにはそういう描写は一切ありませんでした。つまり、彼には人間なら誰もが持っている、自己を楽しませたい、満足させたいという欲求……我欲が欠如している。彼は、ルードのリーダー、「無名街の守護神」となった今も、自分が大切にされるべき人間だとは考えていないのです。

 “家族”が生きるに必要なお金を使ってまで、そのうえ“家族”を危険にさらしてまで、病気を治そうとは思わない。無名街の他の住人たちのように、病気にかかれば自然に任せて、死ぬときには死ぬ。彼はそんな気持ちでいたように思うのです。



 九龍グループが無名街を爆破するまでは、それでよかった。G-SWORD内での小競り合い程度なら、無名街の守護者としてルードは十分に機能しました。けれども、無名街再建の足がかりだった地下鉱山が爆破され、多くの住人が殺傷され、劉龍人率いるDOUBTの罠にハマったとき、スモーキーは自分自身とルードと無名街の限界を悟ったのではないかと思います。

 無名街は戸籍も居住権も持たない人々の集まりに過ぎません。殺されても加害者が特定されて罪になることはまれでしょうし、住処を破壊されても立ち去るほかありません。自分たちが守ってきたものが、元より不法であり、公権力を前にしては消え失せるしかない「幻の地」と思い知ったとき、スモーキーの容姿もまた儚く変わったのでした。



 同時に、彼はルードのメンバーに「家族」という“呪い”をかけてしまったことにも気づいたでしょう。

 ルードのリーダーとしての彼は、ワイドレンジフォーメーションの司令塔として沈着に戦況を見極め、戦闘においては血が騒ぐと言わんばかりに敵を蹴倒し蹴散らし、エクストリームなアクションを披露するメンバーの中でもひときわ印象的です。また、劉の罠にハマったときは、傷ついたルードのメンバーに散開を命じ、自分は殿(しんがり)を務めて全員を逃がすという、惚れ込まずにはいられない男気を発揮します。

 さらに、皆を“家族”にしてくれた家長でもあり、いつもは空近くにいるスモーキーが地上に降りてくると、どこからともなくルードのメンバーが姿を現し、親鳥を追う雛のごとくその後ろに付き従います。

 ルードの面々にとってスモーキーは絶対的なリーダーであると同時に敬慕する家長であり、その傍を離れるなど考えられないことでした。



 刻一刻と家村会による掃討が迫るなか、生きるために築き上げた“家族”の絆が、逃げるべきときに誰も逃げず、危機に陥るだけの「枷(かせ)」になってしまっている。

 この局面における、スモーキーの判断はおそらく3つ。

 まず、家村会の掃討のターゲットは間違いなくルード。そのリーダーである自分を狙わせ、引きつけておけば、その間にメンバーは残った“家族”を連れて逃げられるだろう。

 次に、すでに歩くこともままならない自分を連れていては、いくら俊敏なルードのメンバーとはいえ逃げおおせない。自分は皆と一緒に行くべきではない。

 そして、無名街における“家族”は無名街あってこそ。外の世界で“家族”の絆を守り続ければ、それは軋轢を生んだり、孤立を招いたりする。皆を“家族”から巣立たせなければいけない。

 この3つめの決断が、九龍グループとは決定的に違う、G-SWORDのテーマでもあるのですが、今はさておき。



 「俺たちはずっと誰かのために夢を見てきた。そうすることでしか生きられなかった。でも、これからは自分のために夢を見ろ」「絶対にあきらめるな。お前たちはいつだって、誰よりも高く飛ぶんだ」。

 これ、『THE RED RAIN』の雨宮尊龍の「誰になんと言われようが、俺たち3人は本物の兄弟だ。最強で、最高の……」に並ぶ、“兄”から“弟妹”たちへの思いやりに満ちた言葉だと思います。

 「誰かのため」、それは無名街の住人たちのために戦い続けてきたことだったり、無名街の再建のために地下鉱山で働いていたことだったり、いつも“家族”への気遣いを忘れないことだったり、スモーキーの身体の心配だったり……。“弟妹”たちのこれまでの思いや努力、献身を受けとめ、認めてやり、未来への指針と信頼を託す。

 “弟妹”たちにこの言葉を残したことこそ、スモーキーのルードのメンバーへの深い愛情と、彼らと“家族”の絆を結べたことへの喜びと満足を物語っているように感じます。



 もちろん、ルードのメンバーはスモーキーの傍を離れたくはなかったでしょう。しかし、劉&DOUBTと戦ったときのように、スモーキー(家長)の命令は絶対なのですね。

 それにもうひとつ、彼らにはスモーキーを止められない理由がありました。自分が盾となって“家族”を守りたい。それは、スモーキーがおそらく初めて口にした「自分がしたいこと」だったのではないか。

 このとき、スモーキーの望みを無視して背負ってでも共に逃げていたら、彼の命はまだしばらくは永らえたかもしれません。でも、心はどうだったでしょう。

 “家族”のために生きてきた彼が、自分の望みとしてその命の使いどころを決めてしまった。敬愛するリーダーであり、“兄”である彼の決意だったからこそ、特に彼と戦ってきた“弟”たちは無下にはできなかったのだと思います。

 それでもタケシだけはスモーキーの元に残ろうとします。しかし、スモーキーにとってタケシこそルードに残す“自分の意思”でした。

 スモーキーの言葉に今生の別れを予感してタケシが流した涙があまりにも自然で、窪田正孝佐野玲於ではなく、スモーキーとタケシという人物たちの語らいを観ているようでした。



 だからこその「最高の人生だった」。お互いにお互いを失えないのに、スモーキーの望みを呑んで、折れてくれた。自分の人生を、心を、望みをすべてまるごと受け留めてくれる、そんな“家族”と出会い、生きてこられた。最後まで守りたいものを守ることが許された。

 このときのスモーキーの思いは、たぶん"Break into the dark"の歌詞のままです。



 I'll break into the dark

 I'll give everything I have and everything I had

 I'm one step closer to the light

 「闇を遮ろう。

  かつて持っていたもの、今持っているもの、すべてをかけて。

  私は光へと向かう一歩になる」





 二階堂は、スモーキーのような「無名街のカリスマ」になりたかったのかもしれませんね。最初は暴力や威圧やあの手この手を使って部下を集めたのかも。でも、支配欲とは無縁のスモーキーのもとに人が集まるのを見て、勝手に負けた気になって無名街を出奔。家村会の幹部として頭角を現し、惨めに殺される(と二階堂は思っている)スモーキーを嘲笑いに来たつもりが、「お前にはわからないだろう」と言われて、本当にわからないから、死ぬまでこの言葉を思い出して悶々とする、という展開だったら、私がわりと根暗く喜びます。





 コブラが無名街に到着したとき、すべては終わっていました。

 おそらく最初にスモーキーの元に駆けつけたのはルードのメンバー。“家族”を安全な場所に逃したあと、すぐさま戻ってきたでしょう。ちょうど劉&DOUBT戦でスモーキーを助けに舞い戻ったように。雨宮兄弟は、たぶんスモーキーがキリンジたちの攻撃を受けてからそんなに経たずに到着したと思われます。バイクを手足のように扱う運び屋ですから、緊急の場合、それこそぶっ放して来るでしょう。

 コブラはもちろん俊敏俊足を誇るルードも迅速確実な運び屋である雨宮兄弟も間に合わなかった。この「間に合わなかった」が『THE MOVIE 3』の、そして『HiGH&LOW』シリーズの大きな転換点だったと考えます。



 (後編に続く



Break into the Dark

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