Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

映画『悪童日記』は冴え冴えとした残酷さが美しい双子に釘付け!



 映画『悪童日記』は、ヤノシュ・サース監督が主役の双子を演じたジェーマント兄弟を見つけ出したことがなによりの勝因だったと思います。
 ハンガリーのすべての学校に連絡して双子を探すこと半年。ジェーマント兄弟は“ぼくら”が疎開先でそうだったように、寒村に暮らし、肉体労働の厳しさを知っていました。子役でも俳優志望でもなく、ただの子どもだったからこその、外部に対する瞬発力のよい、みずみずしい反応。知性と野性を兼ね備えた美しい双子の、常に“敵”を睨み上げる強い眼差しにゾクゾクしました。


 第二次世界大戦の真っ直中、戦火が迫る「大きな町」から国境沿いにある「小さな町」に疎開してきた“ぼくら”。そこは母方の祖母の家でしたが、娘を嫌っていた祖母は“ぼくら”を「メス犬の子ども」と呼び、奴隷のようにこき使い、寝床も食事も粗末なものしか与えませんでした。
 酒飲みで癇癪持ちでケチな祖母は「魔女」と忌み嫌われる存在で、さらに空襲に怯える日々に疲弊していた町の人が“ぼくら”を助けることなどありませんでした。むしろ、憂さ晴らしに“ぼくら”に暴力を振るいます。
 “ぼくら”の頼りは、父から「なんでも書いておきなさい」と贈られた1冊の日記帳と、母の「強くなってね」と「何があっても勉強を続けるのよ」という言葉だけでした。


 鉄条網の張られた国境線の向こうにはナチスドイツの収容所があり、処刑を目撃することも日常茶飯事。唯一つき合いのある隣の少女は、目と耳の不自由な母親と暮らしており、司祭に“イタズラ”されることで金銭を得ていました。“ぼくら”に靴をくれた靴屋を、美貌の女性が笑いながらユダヤ人と罵り、ユダヤ人を狩り立てていた兵士に殺させたことも。
 世界は汚くて残酷で死の匂いに満ちていました。


 “ぼくら”は殴打される痛みに耐えるために自らを打ち、空腹に耐えるために食事を拒否し、精神を鍛えるために母の写真を焼きます。死に慣れるためにかわいがっていた鶏を殺し、昆虫を生きたままピンで刺し、やがて人間の死にも心を動かさなくなり、死に対する禁忌感を失います。
 子どもが成長するうえで、両親の存在や周囲の環境がどれだけ大切かを考えさせられる映画ですが、そんな陳腐な言葉でまとめるには、この映画は冴え冴えと残酷で美しすぎます。


 以前、『悪童日記』は萩尾望都の『エッグ・スタンド』に通じるものがあると書きましたが、本当にあの作品の読後感に似ています。あるいはマンディアルグの『黒い美術館』……。


 “ぼくら”のみならず、戦火や貧困に追いつめられた人びとの凍りついたような表情が脳裏に貼り付いたように離れません。
 『悪童日記』は現在、渋谷・アップリンクにて公開中です(12月26日まで)。
 http://www.uplink.co.jp/movie/2014/33602


 『悪童日記』公式サイト:http://akudou-movie.com/
 『悪童日記』予告編:https://www.youtube.com/watch?v=GG2Ay13J9TQ
 




 ここからはネタバレになるかもしれません。見たくない方はご注意ください。








 さて、『悪童日記』の原作小説には『ふたりの証拠』と『第三の嘘』という続編があります。実は、この3作の間には矛盾がいくつか存在します。それは、作者のアゴタ・クリストフが、双子というモチーフを使って、独立した3編の小説を書いたと解釈できるほど大きなものです。
 しかし、3作をひとつの作品として結びつけると、そもそも「小さな町」に疎開したのは双子のうちひとりだけだったと読めるのです。
 それを踏まえて映画を観ると、日記帳が1冊しかないところから始まって、別の物語が見えてきませんか? その感覚は、やはり萩尾望都の『半神』とか、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』とかに通じるものかもしれません。
 そして、この要素を考えれば、ジェーマント兄弟の一見そっくりだけど、常に前に立つひとりと彼に寄り添うようなひとりという、絶妙な雰囲気が重要に思えてきます。どちらが今そこにいるひとりで、どちらが幻想のひとりなのか。
 “ぼくら”の「最後の試練」もまた、生まれてからずっと一緒で、お互いだけを頼りにしてきた双子が、独りの存在となる精神的な“決別の儀式”と思えば、せつなさが極まるのです。

悪童日記 [DVD]

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悪童日記

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ふたりの証拠

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第三の嘘

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