Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

『僕たちがやりました』第8・9話 みんな表情が秀逸すぎてリピが止まりません



 第8話を観たとき、市橋はトビオが矢波高校爆破事件の犯人だと思いながら死んだのか、トビオは潔白だったと思いながら死んだのか、どちらだろうという疑問が浮かびました。



 個人的には、市橋はトビオが犯人だと疑ったままだったのでは、と考えています。爆破事件があってから「トビオたちが犯人」と確信して追ってましたしね。トビオが学校の屋上から「落ちて」入院したことも知っていたでしょうし、トビオからの動画の「(犯人は)今頃、自分がやったこと、絶対後悔してるからさ」はその表情も相まって、決定打だったんじゃないか、と。

 でも、市橋は「自信のないヤツは嫌い」という自分の主義で、自分の目にそう映る学生や先生を叩きのめしてきた過去があります。今の自分の状態をしっぺ返しだと言う市橋は、蓮子を助けるために自ら刺されたとき、もう死んだつもりだったんでしょう。

 取り巻きに「ゴミのように」扱われ、あれほど嫌いだった「自信のないヤツ」に自分がなってしまったとき、トビオが同情も憐憫もなく付き合ってくれた。蓮子はもともとトビオが好きだったし、自分もトビオに「胸張って生きている」男気を感じたから、「ふたりが幸せならいい」と思ってしまったのかな。
 彼がやってきたことは、おそらく肉体的精神的に何人もの人生を狂わせたと思います。実際、マルにしたことも、犠牲者同士に殺し合いをさせ、勝っても半殺しにして裸で段ボール箱に詰めるというひどいものでした。

 だから同情の余地はないのですが、それでもしっぺ返しがきつすぎましたね。

 市橋を哀れと思う一番の理由は、彼が「胸張って生きてる」と感じたトビオは本来の彼ではなく、狂躁状態の「新しい俺」だったことです。そのトビオが自首を決意し、実行するきっかけになるのが、市橋の死なのですから、皮肉なものです。





 トビオは「自分のこと」については非常に敏感(蓮子と市橋がふたりでいただけで、付き合ってると誤解して全力疾走できるほど)ですが、「他人のこと」には非常に鈍感です。特にこのときは市橋に蓮子とつき合っていることが言えて、祝われて、本当にホッとして気が緩んでもいました。だから、市橋からの動画を見て、様子がおかしいと思いだしたのは「終わりにするわ」あたり。市橋が次に何を言い出すのかと動画に見入っていたら……。

 たぶんトビオには想像できなかったんだと思います。自分は飛び降り自殺しても、他人が同じことができるとは思わない、それがトビオです。



 私だけかもしれませんが、動画ってその人が今、そこでしゃべってるみたいに錯覚しませんか。トビオが動画を見ている間に、市橋は松葉杖を突きながら屋上まで上って、屋上を歩いて、飛び降りた。
 スマホに映る市橋、それを見るトビオ、その後ろに落ちてくる市橋の身体。スマホ全盛の現代ならではの構図だと思います。



 トビオにとっては、矢波高校爆破事件は自分は爆弾の設置を手伝っただけという意識がどこかにあって、自分のせいという意識は薄かったかもしれませんが、市橋の死は間違いなく自分のせいと思えたでしょう。

 市橋に障害を負わせて絶望させたのは、爆破事件の犯人である自分。それなのに、自分が犯人であることを黙っていたために、市橋はトビオを友だちと思い、好きな人を奪った彼の幸せを祈りながら死んでいった。

 人生でこれ以上最低最悪な事態ってなかなかないと思います。それはもう抜け殻みたいに街をふらついてしまうでしょう。ところで、蓮子の家の前でうずくまって彼女に「俺が殺しちゃった」と告げてから、トビオは街を彷徨ったんですかね。あんな状態のトビオを、蓮子がひとりにしてふらつかせるかな、とちょっと違和感。





 トビオが自首を決めた頃、他の3人もそれぞれに犯罪を闇に葬ることでもたらされる不幸を味わっていました。

 伊佐美は、彼が犯罪を犯したと気づいている今宵に、お腹の子どもを「犯罪者の子」にしたくないからと別れを言い渡されます。反対する父親を「私はお父さんと違って、ちゃんと子ども、大切にするもん」といなし、追いすがる伊佐美を「私に隠してることあるじゃん」と拒絶する今宵ちゃん、やっぱり地頭がいい! 『僕やり』のなかで彼女が一番好きかも。

 「気づいたら、好きすぎてやべえよ」という伊佐美も好感度爆上げです。このふたりのストーリー、わりと好きかも。



 マルはウンコくんに「お前みたいなクズと誰が友だちになるか」とからかわれ、「友だちがいない時点で人生の負け」と言われ、慌ててパイセン、伊佐美、トビオに電話しますが、誰ともつながりません。言葉をかけてほしいときに、誰もいない。それで友だちの大切さに気づくというのも……短絡的なマルらしいというかなんというか。

 「これまで裏切り続けてマジごめん」と謝られて、他の3人がゲームにかこつけて「変な数字来い」「警察にバレろ」「逮捕されろ」とグチグチ言ってるのがいいなと思いました。なんだかんだ、3人ともお人好しですね。それで、ゲームとはいえ、メキシコ取引で2億円にしてほくそ笑んじゃうのがマルですね(笑)。

 でも、サイトや動画を作る腕があるのは見直しました!



 金持ちで何でも持ってるけど、実は何も持ってないパイセンの出自がわかって、親の愛さえ持っていなかったことが判明。言いたい放題の父親とやりたい放題の異母弟に卑屈な態度を見せますが、目には悔しさや「このままではすませない」という決意が窺えるのはさすが今野さん。やはりパイセンが輪島攻略へのキーマンになりそうです。

 願わくば、後味の悪いことになりませんように。





 第8話はトビオと市橋の、第9話はトビオと蓮子のデートシーンが、それぞれかわいくてよかったですね。

 市橋とのボーリングシーン。踊るトビオというか窪田さんが素っぽくて(笑)。ヒップラインやボールを投げるときの腕や背中のラインが美しい! 市橋というより70%ほど真剣佑さんは、松葉杖を突きながらなのに全身から力強さが感じられて、飄々とした窪田さんといい対称になっていました。



 蓮子とのデートシーンは、トビオのちょっとした表情、蓮子の頭に手を置く仕草、背を向ける姿のひとつひとつに「別れ」を予感させる寂しさが漂っていて、「さすが」と唸らされました。

 「なぜ屋上から落ちたのか?」「なぜ市橋を殺したなんて言ったのか?」。トビオに聞きたくても聞けない蓮子こと永野さんが、窪田さんの芝居を受けて、去る背中を追いかけたり、抱きついたり、「幸せだけど……」の「……」の部分をよく表現されていて、余韻が微笑ましいのに切ないという。そして、予感していたからこその、トビオの「別れよう」に対する「そっか」。矢波高校の爆発シーンや市橋の姿のインサートが、このふたりは一緒になることはないんだとダメ押ししてくれます。

 想い合っているのに別れないといけない。窪田さんの表情も永野さんの表情も心情がそのまま溢れ出るような秀逸さ。側にいて、今にもそういう別れをしようとしている男女を見ているようなリアルさを感じました。



 と言いつつ、第8・9話では、「あいつ(市橋)のこと何も知らなかった」と自室のベッドの上で考え込むトビオの表情が一番、胸をえぐられるものがありました。

 ……などなど、この2話はトビオも、他のキャラクターも本当にいい表情が多いので、繰り返し視聴、オススメです。






『僕たちがやりました』第7話 「新しいトビオ」との出会いが終わりの始まり



 屋上から飛び降りて、死んだら贖罪、助かったら「新しい俺」を始める。

 ーー助かったトビオは「新しい俺」を始めることにします。



 人間、自分の心で受け止めきれないことがあると、「錯乱」します。そういうとき、本人はいつもどおり自分で考えて行動しているつもりでも、理性で隠していた本心や押さえていた本性が、気づかないうちに表に出てきます。まるで、体や心が本性や本心に乗っ取られたように、いつもの自分では考えられない言動をするんです。



 それを踏まえて考えると、屋上からの飛び降りも含めてトビオの行動はとても自然です。

 彼にとって受け止めきれないこととは、「10人もの高校生を殺したこと」「保身のために無実のホームレスを死刑に追いやろうとしていること」。そして、それを闇の中に葬ったことで「一生続く罪悪感」。

 屋上から飛び降りたトビオが一瞬のためらいもなく、笑みさえ浮かべていたことに、彼の「逃げたい」という本性が表れている気がしました。さらに、落ちながら「死んだら贖罪、助かったら『新しい俺』を始める」と考えているあたり、トビオはとことん自分本位なんだな、と。犠牲者10人の写真を直視しても、彼らの命を奪ったという罪悪感よりも、その罪悪感を覚える自分から逃げたいだけなんだなと感じました。



 命をとりとめたトビオは「あんなにつらい思いしたんだ」「そこそこじゃ足りねえよ。幸せになってとんとんだろう」と、性格が変わったように明るく振る舞いだします。

 自分で死を選んで、死んでいたはずが命拾いしたとなると、たぶん人は伊佐美のようになります。性欲マシーン・伊佐美は「リトル伊佐美」に導かれるままに今宵に襲いかかっていましたが、誰もがあんなふうに狂躁状態に陥るのではないでしょうか。

 物怖じすることなく年上の女性にナンパを仕掛け、あんなに怯えていた市橋にも堂々とタメ口を叩く。そのうえ、あろうことか、蓮子とトビオの関係を知っていて一歩が踏み出せずにいる市橋に、蓮子との恋を焚きつける。本来のトビオなら絶対にやらないことばかりで、無理に「新しい俺」になろうと狂乱しているようにしか思えません。

 南先生とラブラブになり、市橋と友だちになり、彼と蓮子の恋を応援する。本当にそれが「新しい俺」だと信じて生きるつもりだったのなら、蓮子と関係をもつことはなかったはずなんです。

 蓮子と恋人になった時点で、南先生の恋人で、市橋の恋を応援する友だちの「新しい俺」は霧散します。残ったのは、蓮子が好きな本来の自分に戻って「幸せ」を噛みしめるトビオと、裏切られた南先生と市橋でした。



 市橋……爆破事件で夢を壊され、取り巻きに蔑まれ、裏切られ、ただひとりの家族である祖母は病重く、狂躁状態で怖いもの知らずになっているトビオを「いいヤツ」と思ってしまったがために復讐相手を失い、蓮子との恋を応援してくれたトビオに彼女をさらわれ……。あれ、ここまでの話数でいちばん追いつめられたのって、市橋では!?



 爆破事件の犠牲者は高校生10名と命を金で買われたホームレス1名。伊佐美が犠牲者の家を訪問するのは(リトル伊佐美復活のためとはいえ)、彼らが生活していた空間、彼らの死を悲しむ遺族を見ることで、写真だけの存在だった彼らを、自分と同じ血肉と思考をもった「人」と認識する行為なんですね。
 嘘をついて家に上がり、仏壇に手を合わせ、遺族が喜びそうな言葉を言って感謝されることで「チンコン」するサマには、「やっぱりマルと友だちでいられるだけのことはあるわ」と呆れますけど。



 さて、実は伊佐美の行動はいつもトビオの一歩先を行っています。

 第2話で、テレビで死んだヤツらの写真を見たら、吐き気がして寒気が止まらなくなって、こんな気持ちでいるなら死んだほうがマシだと首吊り自殺を図る。第3話で、自殺から生還したら、自分の心のままにトビオの目の前で今宵を襲うような狂躁状態に陥る。そして、第6話で金を盗んだマルを殴るところまで、トビオに先行。

 伊佐美が吐きながらチンコンすることで犠牲者を「人」と認識していったように、トビオがそれを認識するきっかけが市橋なのだとしたら……。





 第7話は市橋=新田真剣佑のかわいらしさが全開で、黒ヒョウはネコ科だったと気づいたときのような気持ちになりました。制作発表会や雑誌の対談から窺える、窪田さんとの仲の良さが、ふたりの映像すべてから放射されてましたね(笑)。



 そして、蓮子とトビオのシーン。今宵とのときはあまりドキドキしなかったのですが、今回はふたりの肌の色の違いやトビオの「大きなスプーン」っぷりにドキドキしました。
 相変わらず照明&撮影がいい仕事しています。誰でも、映す向きによっても顔の印象って変わるものです。『僕やり』の撮影スタッフは、この俳優のこの感情ならこの向きというのを心得ていて、ハッとするいい表情ばかりを映像に焼きつけていらっしゃること、すごいなと感心しています。






『僕たちがやりました』第6話 ターニングポイントでまさかのターンアウト!?



 『僕たちがやりました』第6話。1クール作品の折り返し地点で、『僕やり』も前半のクライマックスを迎えたように思います。



 爆破事件の真犯人が警察に出頭し、パイセンが「冤罪」で釈放され、それぞれの逃亡生活から再び集合した4人は「無罪」に歓喜します。放課後はカラオケ、スポーツゲーム、恋バナに騒ぎ、家に帰れば母が好物を並べ、妹も蓮子もやさしい。「そこそこの人生」が戻ってきたと喜ぶトビオですが、「冤罪で警察に追われ、恐怖で逃げるしかなかった未成年」には「そこそこ」以上の「幸せ」が用意されていたのでした。



 パイセンの暴露さえなければ、トビオたちは「そこそこの人生」をこれからも送れたはず。でも、集まるたび、罪から解放されて無邪気に騒ぐ3人を、秘密を抱えたパイセンが心穏やかに見られるとも、一緒に騒げるとも思えないので、遅かれ早かれ暴露はあったでしょう。

 パイセンが「俺、オシッコ我慢するのが好き。けど、たまーにやりすぎて漏れちゃう」と言った暴露は、そのあとの飯室刑事の「フタをすればするほど、その感情は溢れたがる。忘れようとすればするほど、思い出す」をまさに体現してるんですね。



 パイセンを自供寸前まで追いつめながら、真犯人の登場で「事件解決」というかたちで捜査を打ち切らざるを得なくなった飯室刑事。「これからどうするのかな」と思っていたら、4人の前に現われるという直球ぶりに驚きました。「お前がやったことはわかっている」と言わんばかりにフルネームを呼び捨てし、けれどももう警察は4人を追わないと告げる飯室刑事。「だって、お前ら、無罪じゃん」。このときの三浦翔平の表情の恐さときたら……。

 「お前らが10人もの人を殺した」と断罪され、「お前らのやったことを、俺は知っている」と脅迫され、「法の裁きを受け、償いをするチャンスは無くなった」と宣告された4人。これまで「ちょっとしたイタズラだったのに、大事(おおごと)になった。警察に捕まったら刑務所に入れられる。とにかく逃げよう」という意識しか、トビオたちに感じられないことが気になっていました。トビオのモノローグも、「10人殺した」「取り返しがつかない」と言いつつも、結局は「もう元の生活には戻れない」という自己憐憫に終始しているように思いました。

 被害者の写真を飯室刑事に見せつけられたことによって、ようやく自分たちが殺した相手が顔と肉体をもって迫り、「10人の命を奪った」ことを自覚したトビオたち。第2話からずっと積み残されてきた荷物がようやく回収されたような、妙な安堵を感じました。



 「お前たちがいつか他人を愛したとき、結婚するとき、子どもが生れたとき。その節々で思い出せ、人の命を奪ったということを」「一生苦しめ」ーー飯室刑事の言葉が呪詛のような力をもって、トビオたちの心に絡みつくのが見える気がしましたね。三浦さんの表情や言葉にこめた力もすごければ、それを受けるしかないトビオ、伊佐美、マル、パイセンのそれぞれの表情もよかった。「言霊」の存在と影響を感じました。



 私はトビオたちのような立場になったことがないのでわかりませんが、自分が事件を起こしたとき、最初はやはりパニックになって、自分が被害を与えた他人より、自分はこれからどうなるだろうと考えるばかりになるかもしれないとは想像できます。また、対面して殺したとか傷つけたとかなら実感もあるでしょうが、トビオたちの場合は遠隔操作による爆破だったうえに、窓を割る程度のイタズラのつもりだったので、「手を下した」という感覚が薄かったとも考えられます。

 だから、「お前たちがやったことはこういうことだ」と写真を突きつけられたことは、4人にとってよかったと思います。罪を自覚すること、そして第三者に罪の重さを量られ、等分の反省と償いを行なうことから、自身の心の救済がようやく可能になるのですから。

 でも、その救済が「お前ら、無罪じゃん」のひと言で不可能になる。「裁かれないことの残酷」というテーマは珍しいものではありませんが、高校生主人公が直面するには重すぎやしませんか。なるほど、「トラウマになるドラマ」とはこういうことですか。



 パイセンが真実を闇に葬ろうと音頭を取った「闇の中」と、飯室刑事が4人諸共に闇に落ちろと唱えた「闇の中」。「闇」という言葉を重ねながら、「闇(真実を隠し、裁きを逃れること)」こそ、罪人を「闇(光(救済)のない絶望)」に沈めるのだと意味をツイストさせる飯室刑事、本当に呪詛をかけているようで戦慄しました。



 罪を自覚すれば、自分は母の愛情を受ける価値も、蓮子と恋を育む資格もない。世間では終わった事件で、告白すれば苦しめるだけとわかっている真相を母や蓮子に語り、「愛さないでくれ」と言えるはずもない。トビオの「幸せが気落ち悪い」という言葉が彼の心情を表現するに絶妙で、心がザワッとしました。『僕やり』は言葉の使い方がときどき文学的で、ぎょっとさせられます(笑)。

 犯罪者であることを都合よく忘れたように、逃亡生活のあることないことをクラスメイトに自慢するマル。一方、爆破事件に関わるすべてから目を背けるように、トビオさえ無視する伊佐美

 「マルみたいにはなれない」と独白するトビオが、向こうからやってくる伊佐美を見て「お前はたぶん」と意識し、視線もくれずにすれ違う彼に「……そうするよな」と心中で語るところは切ないですね。「もう……集まること、ない気がする」というトビオの予感そのままに、溜まり場の部室にはパイセンも姿を見せません。

 4人の中でいちばん仲間とつるむことに淡白に見えたトビオが、パイセンが来るかもしれない部室にひとりでいるのが意外であり、あの逃亡生活のあとでならと納得もできました。



 ひとりひとり同じ闇の中にいるのに、顔を合わせることも、言葉を交わすこともなくなりそうな仲間たち。マルも伊佐美もトビオ以外に親しげな友だちがいて、パイセンは顔を見せません。

 孤独に闇を抱えるトビオにとって、沈みゆく夕日は「光明」に、その向こうは「解放」に見えたのでしょうか。まるで欲しいものが見つかった子どものような笑みを浮かべます(このシークエンスの表情の変化がたまりません。トビオをかわいいとも、かわいそうとも思ってしまいます。窪田さんがトビオを主人公として守ってくれているな、と感じるところです)。絶妙なタイミングでインしてきたエンディングテーマ「僕たちがやりました」が途切れ、蝉の声だけが響くなか、足取りも軽く彼は虚空に飛び出すのでした。



 蓮子と約束したとは言え、トビオが進んで市橋に会うとは思えなかったので、「ああ、なるほど。こういうかたちで!」と納得しました。さて、トビオの自殺で、仲間たちはどう動くのでしょう。

 そして、自分たちを罰するもの(警察)から逃げていたトビオたちは、今度は自分自身の罪悪感に駆り立てられて……逃げるのでしょうか。

 ますます次回が楽しみです!






『僕たちがやりました』第5話(個人的に)見たいものが見たいように見られた神回!



 『僕たちがやりました』第5話、Twitterにも投稿しましたが、140字では言い尽くせない感想を思い切り書いてみました(笑)。原作未読前提。ご興味のある方はどうぞ。



 自分でも言ってるけど、トビオは根っから逃避体質なんですね。まさに貞操の危機の真っ最中に「(自分が迫ったときの)蓮子もこんな気持ちだったのかな」「めっちゃ、俺、ひどいことしたんだって、今気づいた」「謝りてえ」ってボロボロ言葉と涙がこぼれるトビオ。普通、強姦されかけの非常事態で好きな人とは言え他人のことなんて、まず思い出しもしないでしょう。

 トビオの「俺、すげえ自分勝手だった。自分のことばっかで、何も考えてなかった」という言葉が、ヤングさんへのカウンターになったのは笑いました。ヤングさんの「後ろが嫌なら前を向け」って意味深だなあ(笑)。



 そのあとも、蓮子が市橋といるのを見た瞬間、「ふたりはつき合ってる」と思いこんで文字どおり遁走し、考えたくないことすべてから逃げて今宵とのセックスに溺れ……。本当にダメな奴だなあと思うのですが、「昔からそうだ。熱くなってよかった例(ためし)がない。だからそこそこでいいんだよ」という独白を聞くと、「その気持ちはわかるわ」となっちゃうのがトビオのずるいところですね。



 今宵は遠洋漁業で留守がちな父親とのふたり暮らしで、幼いときからひとりきりでいて、孤独でたまらなかったのかもしれませんね。だから、傍にいてくれるなら、相手が体目当てでも犯罪者でもいいってことなのかな。本気になっても裏切られるだけと思い知ってきたからこその「どっちでもいいし」という口癖なら、切ないなあと思います。



 蓮子は「だめんずウォーカー」の素質ありでしょ。トビオといい、市橋といい。

 特に車椅子生活になってからの市橋には、「私が助けてあげなきゃ」という妙な保護欲というか、姉気質というかが全開してますよね。逃げ回ってるトビオが自分に連絡を寄越さないことで不安や無力感が募って、「自分にもなにかできることがあるはず」という気持ちが市橋の「介護」に向いたのかなあと想像。

 自分のことを「もう終わった人間だ」と言い、自殺的な行動に出た市橋の告白は、たぶん「私が守ってあげなきゃ」気質の蓮子のツボを射抜いたはず。市橋が株を上げたおかげで、トビオ、蓮子、市橋の三角関係が成立しちゃったなあと感じます。

 でも、そもそも、爆破事件の原因にもなった、弱い者に目をつけて、次々に肉体的にも精神的にも半殺しにしてきたのは市橋たちだからね。有原を睨みあげた眼力には確かにボスの風格があって、ヤラれましたけどね!



 加藤諒扮する「ウンコくん」といい、マルに下剤を仕込まれた伊佐美といい、小学生レベルの下ネタをはずさない『僕やり』(笑)。マルに殴りかかろうとして硬直した伊佐美のパンツが、次のシーンで変わってたの、見逃してませんよ! まったく自然にモーション続けてましたけどね!

 伊佐美には踏んだり蹴ったりでしたが、結果、彼がマルを殴ってくれて「バンザイ!」(笑)。伊佐美の「パイセンとトビオがいなかったら、お前みたいなヤツと友だちになってねえからな!」「俺もですけどー」が個人的ハイライトでした。伊佐美の口から自然にパイセンとトビオの名前が出たのがね。ふたりがいてこその友だち関係。そう言いながら、ふたりとも「自分たちは友だち」前提で話してるのがかわいいな、と。

 マルが伊佐美と合流し、トビオがパイセンと再会して、なんだか安心感が湧き上がったのは事実。第2話でもうバラバラになった4人だけど、やっぱり4人は4人でいてくれないと!





 第5話で私がいちばん注目したのは、トビオの変貌です。第4話ですでに疲れた顔を見せていたトビオですが、第5話では蓮子の「ちょっと痩せてたっぽい」という言葉どおり、服を脱いだときに「痩せたな」と感じました。それからも、まともに食事をする描写のないまま「ヤッて寝て、ヤッて寝て」で一話の中でどんどん頬がこけ、目の下の隈が濃くなっていく。

 顔の輪郭が変わっているので、メイクだけのせいではなく、窪田さんが実際に痩せられたんだろうなと思いました。トビオを演じることになって「高校生の役だから少しふくよかにならないと」と言われていたことを考えると、「食べずにヤッて寝てしてるんだから痩せないと」と思われたことは想像に難くありません。そして、その甲斐あっての第5話であり、トビオを主人公足らしめていると思うのですね。



 トビオのやってることって、その気はなかったにしても大量殺人を犯して、その裁きから逃げて、友だちの彼女とヤッて寝て、ヤッて寝て」しているわけで、クズ以外のなにものでもない。

 モノローグも自己嫌悪のグダグダしたものばかりで、車椅子の市橋を見ても、「蓮子と市橋、ヤッてんのかな」と悶々とするだけで、「自分たちがやったことのせいで市橋があんな姿に」とか「自分と同じ高校生を死なせてしまった」「人生を狂わせてしまった」とかは、いっそ清々しいほど考えつきもしない。

 やってることとセリフだけ見聞きしていると、「人非人」としか言いようがなく、擁護のしようもありません。



 でも、顔も体もどんどん衰弱していくんです。「セックスやつれ」と見れば、下ネタギャグなのですが、同時に、食事もとらずにセックスに溺れるしか、最悪の現実から目を背ける術がないトビオの追いつめられっぷりもわかってしまう。「どうしようもないクズだな」と唾棄する気持ちのなかに、「かわいそう」とかちょっと思われませんでしたか? 罠ですよ、それ(笑)。



 このドラマの主人公はトビオです。ドラマの中には、主人公を満足に描かず、周囲を固めるキャラクターの魅力から、彼らが意識している存在として主人公を際立たせるという手法もありますが、『僕やり』はそういう作品ではありません。あくまでもトビオが主人公として視聴者の耳目と興味を引きつけなければなりません。

 でもトビオはどうしようもないクズです。普通に描けば、共感も同情も得られない犯罪者で、ついでに視聴者に「見たくなかった自分の暗部(究極、自分のことだけしか考えられない自分)」を突きつけてくるイヤな人物になってしまいます。

 だったら、どうやって視聴者の興味を引けばいいか。「哀れだな」「かわいそうだな」と思われるのがひとつの手段です。真犯人がいるという希望を絶たれ、警官に追われて路地裏に転がり、残飯を漁り、頼りと思った人に強姦されかけ、他の男と親しげな恋しい人を目撃し……と追いつめられてきたトビオが、セックスしか拠りどころをなくして痩せていく。哀れですよね。



 さらに、童貞を捨てた相手である今宵は、トビオが犯罪者でも「どっちでもいいし」、「ひとりって寂しいでしょ。警察に捕まるまで一緒にいればよくない?」と言います。それって、「愛している」とはほど遠い言葉。「好き」がセックスに直結していたトビオにとっては、関心のない相手とでもセックスして、思いやりの言葉までかけてくれる今宵は衝撃的だったんじゃないかな。別に今宵の心が欲しいとは思わないけど、それを許容してくれるのならと、根本的に自分に甘いトビオは彼女を抱き続けたのだと思います。

 だからこそ、隣に今宵がいるにも関わらず、留守電に残ったお母さんのメッセージに、「こんな最低な俺でも、すっげえ心配してくれる人がいるんだ」って泣いてしまう。かわいそうですよね。



 そして、体力も精神力も尽きたところで、自首する勇気はないから、別件逮捕を狙う。変なところで知恵が回るトビオ。……はともかく、ひとりで黙々とボールを投げ続ける姿には鬼気迫るものがあって、第1話で4人でご機嫌にプレイしていた姿を思うと、やっぱりかわいそうに思いました。



 クズだけど、心底憎めない、嫌いになれない。トビオが主人公でいられるように、窪田さんも監督さんもギリギリのラインを攻めてますよね!





 あと、第5話はトビオが視聴者から見放される危険性がある回であり、放送コード的にも危険な回なんですよね。

 普通なら、童貞を捨ててセックス三昧って男性にとっては「春」状態でしょう。でも、セックスしてても愛はない今宵のおかげでトビオはさらに追いつめられていく。そこを描くためにも、ヤッてることは見せなきゃいけない。

 そこで考えつかれたのが、女性(今宵)の肌は最大限見せない。でも男性(トビオ)の裸はバンバン見せましょう戦法(笑)。窪田さんの体が、ちょっと痩せて、筋肉よりはラインが目立つ感じで、ちょうど肉感より綺麗感のほうが強くなってるんですね。また、そう見えるように、ものすごくカメラ位置と角度、照明が考えられています。

 窪田さん、前髪を上げたときの「男の色気」は殺傷力抜群なのですが、下ろされているとトッポさが残るところが男性にも嫌味を感じさせないだろうという。「ああ、人選、間違ってない!」って何度目か感心しました。

 番組開始前の番宣トレーラーで、俳優さんそれぞれにある「撮りポイント」を心得た撮影スタッフさんだなあと思っていましたが、第5話は今宵とのシーン以外にも「それ! そういう窪田さんを見たかったんです!!」という画がいっぱいで、「ありがとう! ありがとう!!」という気持ちでいっぱいになりました(真面目に)。



 それまで、すっごく「男子!」だったのが、パイセンから無罪と聞き、「伊佐美とマルを迎えに行こう」と言われた瞬間、両手で鼻と口を覆う安定の乙女ポーズに。ラストシーンに飛び跳ねんばかりのトビオは最高にかわいかったです。





 トビオと窪田さんのことしか書いていませんが、第5話はキャストの皆さんの要所要所での演技が光っていました。『僕やり』はキャラクターが特異なだけに、第3話あたりまでは役者さんたちに「演じている」感がありありでそれもまたマンガっぽくて面白かったのですが、第4話から変わりましたね。役者さんに役柄が浸透していく過程が見られて、それも見ものでした。

 キャラクターが浸透した今は、トビオ&今宵、市橋&蓮子、マル&伊佐美、警察の取調室と目まぐるしく場面が転換しても、きちんと心情を追えるのがすばらしい。

 ページをめくるようなマンガっぽさは健在ながら、枠が引かれたコマから彼らの「今」の映像を眺めているような不思議な感覚があり、そう感じさせるキャストの皆さんに「すごい!」と素直に感動しています。『僕やり』は皆さんの「代表作」になるんじゃないかな。

 そして、どこを撮れば「匂いまで感じさせる」ながら「絵になる」かを心得たスタッフ陣の仕事にも感嘆しきりの第5話でした。



(8月19日のTwitter投稿を加筆修正)



映画『東京喰種 トーキョーグール』延長戦 ふたつの「この世界は間違ってる!」



 ※ ネタバレしています。映画を未見の方はご注意ください。



 ※原作未読です。以下は、映画と映画のパンフレットを元にした「感想」です。原作既読の方には、映画と原作の(当然起こりうる)差異による解釈の違いを寛容な目で楽しんでいただけましたら幸いです。





 劇場版『東京喰種』で「君は人間と喰種、ふたつの世界に居場所を持てる、ただひとりの存在なんだよ」という芳村店長の言葉の解釈に悩んだことは、先の感想で書いたとおりです。
 そのセリフと並んでいろいろ考えさせてくれたのが、亜門鋼太朗(鈴木伸之)と金木研(カネキ:窪田正孝)の共通のセリフ、「この世界は間違ってる!」です。



 亜門の「この世界は間違ってる」は、CCG(喰種対策局)の捜査官としての信念ですよね。上司の真戸呉緒(大泉洋)もですが、彼も過去に喰種に身内か親しい人を殺されたのではないかと想像しています。喰種に目の前で両親を殺されたという男の子を見るときの目が、憐憫より、同じ経験をした者としての同情を湛えているように思えたので……。

 そうでもなければ、「喰種がいるこの世界は間違っている。歪めている喰種を駆逐しなければならない」という思考回路にはなかなかならないと思います。

 たぶん、彼にとって喰種とは人間を捕食する猛獣か怪物で、人の姿をしているのは「捕食のために人間に擬態している」くらいの感覚なのでしょう。真戸の影響が大きそうですが、神代利世(リゼ:蒼井優)や西尾錦(ニシキ:白石隼也)の人間を捕食対象としてしか見ていない冷酷さや路地裏でサラリーマンらしき人間を食べていた喰種の姿を見ると、そういう認識になるのも無理はないと思わされます。



 映画『東京喰種』は、永近英良(ヒデ:小笠原海)を巡る、ニシキとのバトルで倒れたカネキが「人肉」を与えられて目覚める場面で、前半部と後半部に分かれると書いてきました。

 それは、カネキが半喰種として覚醒したことで「あんていく」を入り口に喰種の世界に入っていく前後ではあるのですが、同時に映画としての視点が「人間から見た喰種」から「半喰種として見た喰種」に変わるポイント(転換点)でもあります。



 前半部は、自分に恋心を抱いている青年に気のある素振りを見せて有頂天にさせ、喰種の本性を見せて恐怖と絶望のどん底に叩き込むというサディスティックなリゼや、サークルの先輩後輩として親しく接しておきながら、いとも簡単に食糧にできるニシキを通して、人間にとって喰種がどれだけ残忍極まりない捕食者なのかを見せつけます。あるいは、誰かの家族であっただろうサラリーマンを殺して食べながら「不味い」と言う喰種や、その腕を拾い上げて躊躇もなく口をつける霧嶋菫香(トーカ:清水富美加)もまた、人間の敵である喰種でしかありませんでした。

 ここまで観れば、観客は「喰種は人間にとって血も涙もない捕食者」と認識し、亜門の「こんなモノが存在する、この世界は間違ってる」という信念に同調し、そんなモノになってしまったカネキを哀れに思うはずです。



 後半部は、主人公のカネキが「人肉」を食べてしまったという事実が、さり気なく観ている者の視点を「人間」から「喰種」に変えます。その導入、「これから観客の皆さんを喰種の世界にお連れしますよ」という口上が、芳村店長の「君は人間と喰種、ふたつの世界に居場所を持てる、ただひとりの存在なんだよ。『あんていく』に来なさい。ここで私たちの世界を学ぶといい」という言葉なんですね。



 「あんていく」でカネキが、そして観客が知るのは、喰種にとってこの世界は生きづらいという事実。

 人肉しか食べられないのに、食べようとすると人間に追われ、「あんていく」のような駆け込み寺でコーヒーを飲んで飢えを紛らわせるしかない喰種たち。人間に怪しまれないように、人間を観察して言動を真似て、そのためなら拒絶反応を起こす人間の料理さえ口にしなければならない。人間を狩れない喰種もいて、彼らは「あんていく」が回収した自殺者の死体を分け与えられて命をつないでいる。常にCCGの存在を警戒して、喰種と見抜かれたら、人間が来れないような劣悪な環境の場所に身を潜めなければならない。

 なにより、人間を食べないと生きていけない「種(しゅ)」なのに、喰種のなかにはそれに罪悪感を抱いている者がいること。



 カネキは、そして観客は、喰種は「そういう生物」なのに、人間が持たない「食べるために、生き物を殺す罪悪感」を食べるたびに味わっているのだと知り、実は人間のほうが傲慢なのではないかと思うようになります。

 野菜、果物、魚介、牛・豚・鶏……生きるためにあらゆる命を刈り取って食べていながら、それを意識することのない、「綺麗な存在」でいられる人間たち。

 対して、生きるために食べないといけない人間が、たまたま同じような容姿、同じような頭脳を持ち、言葉を通して意思疎通ができる存在であったがために、食物連鎖の頂上にいながら罪悪感を持ってしまった喰種たち。



 「なぜ人間だけが生きることに罪悪感を持たず、綺麗な存在でいられるのか」「なぜ人間だけが、生きるために自分たちを害するものを『歪んだ存在』と断罪できるのか」。そして、「誰もがこの世界に生まれてきた以上、生きる権利、幸せを目指す権利をもっているのに、踏みにじる人間は傲慢にすぎるのではないか」。



 映画を最初に鑑賞したときは、カネキの「この世界は間違ってる!」という叫びは、笛口親子、特に雛美(ヒナミ:桜田ひより)のような、どうしようもない罪悪感を抱えている存在さえ殺そうとする理不尽に対してのものだと思っていました。

 でも、鑑賞回数を重ねるに連れ、それだけではない思いがこめられているような気がしてきました。



 なにより、カネキこそ、人間でありながら、喰種の臓器を移植されたことで半喰種になってしまった、本人にとっては理不尽極まりない存在なのですよね。そして、「そういう生物」にされてしまったのに、人間=亜門と死闘を繰り広げなければならない不条理。

 また、「何もできないのは、もうイヤなんだ」とヒナミたちを助けるために戦うことを決意したのに、喰種の本能に飲み込まれて、戦う意味が簡単に「助けたい」から「欲」に変わってしまう自分への嫌悪。

 さらに、娘の目の前で母親を殺しておきながら、自分たちこそ正義と疑うことさえしない、傲慢な人間の代表のようなCCGのハト。

 もう、いろいろな思いが入り混じっての、そして、それらすべてを「どうしようもないこと」と決めつけて諦めを促してくる世界に対しての、「この世界は間違ってる!」ではなかったかと思うようになりました。



 亜門には衝撃的だったでしょうね。「この世界は間違っている! 歪めているのは貴様らだ!」と言った相手に、同じ言葉を返されたのですから。それも、亜門を喰おうとしながら、赫子で彼自身の頭を思いっきり殴ってそれを止めた喰種に。

 亜門にとっては「人間を喰うためなら、人間のふりだってする獣(けだもの)」のはずの喰種が、「獲物(自分)を喰おうとしていたのに、自身を攻撃してまで止めた!?」こと、自分と同じ「この世界は間違っている」という感覚を持っていたことに、既成概念が覆されるショックを覚えたのではないかと思います。

 草場や真戸を殺されたことで彼の喰種への憎悪は募るでしょうが、「害獣」から「人間の心を持つモノもいる」くらいには認識に幅ができたのでは。亜門にそれが吉と出るか凶と出るか、彼に関してはここからが面白くなる予感がします。





 映画『東京喰種』はキャストがすべてはまり役で、監督やキャスティングコーディネーターの原作愛とそれぞれの俳優について演技の性格や幅への理解の深さに驚きました。

 なかでもカネキ役の窪田さんと亜門役の鈴木さんは、「この世界は間違ってる!」というこの同じセリフを、まったく思いの違うものとして印象づけるに適した配役だったと思います。

 鈴木さんの亜門は、ただ真戸の喰種への憎悪に当てられて「喰種は歪んだ存在」と唱えているのではなく、自分の中に確固たる正義があって、朴訥に思えるほどそれを信じているがうえの言葉として聞き取れました。

 生真面目が服を着て歩いているようで、真戸の隣ではちょっと猫背気味になっちゃうかわいらしさのある亜門。鈴木さん以外の亜門はちょっと考えつかないくらいに、「はまってた〜!」と思います。

 一方、窪田さんのカネキは、半喰種になるまで考えようとも知ろうともしなかった世界を知ったことで、考えようとも知ろうともしない人間に決めつけられ、諦めさせられる世界を「間違っている!」と叫んだような印象をもちました。

 カネキ、引っ込み思案で、およそ生命力が足りない感じに見えますが、本をよく読んでいるからか、理解力と思考力は並々ならぬものがあるんですね。窪田カネキからは文学系の頭の良さを感じます。

 どちらも「いい人」オーラが強いので、このふたりが死闘しなければならない事態が切ないんだなと、何回目かの鑑賞でしみじみ思いました。





 以上が、映画『東京喰種』で私が気になったところ。ブログ3回分のエントリーになっちゃいました。これまで、映画館に5回も観に行った映画はないし、ここまで長文で感想を書いた作品もありません。なぜここまでハマったものか、今ひとつわからないのです。が、原作マンガを実写化するにあたっての方向性、2時間の映画として物語を簡潔にまとめる一方で、要所に含みをもたせたセリフを置いた脚本、ただマンガの画面や脚本をなぞるだけでなく、生きている人間が演じるが故の動作のつなぎ、感情表現の間合いが「生々しい」俳優陣の演技に、まず引き込まれたのかな、と考えています。

 さらに、自在置物の超絶技巧を彷彿させるカネキの赫子の鱗の動きをはじめとする、日本的なVFXと俳優陣や背景との親和性。小さめのシアターに移ってから際立つようになった音響の繊細に心配りがされた美しさ。観る人の耳を邪魔せず、控えめながら、場面にエモーショナルな色をつける音楽。なにもかもが、最高レベルで、絶妙なバランスを保っていることが、何度も観たくなる気にさせる理由かもしれません。



 ただひとつ、パッケージになるときになんとかなっていればいいなあと思うのが、真戸が誘い出したヒナミと顔を合わせるところから川辺に至るまでの時間経過、および真戸の連絡を受けた亜門がカネキと遭遇するまでの時間経過。

 日中からいきなり夜になっていて、「真戸は何時間ヒナミを追い回したんだ!?」とか「亜門は東京のはずれまで遠征してたのか!? でもまだ日の高いうちにカネキが亜門の車を目撃して追ってるよね」とか、気になって仕方がありません。

 あの時間経過のうちに何事かが起こっていて、でも、たとえば尺の関係でカットされたのだとしたら、ディレクターズカット版としてでもパッケージに入れてほしいなと思っています。







映画『東京喰種 トーキョーグール』後半戦 カネキの半喰種化は精神的両性具有化



 ※ ネタバレしています。映画を未見の方はご注意ください。

 ※原作未読です。以下は、映画と映画のパンフレットを元にした「感想」です。原作既読の方には、映画と原作の(当然起こりうる)差異による解釈の違いを寛容な目で楽しんでいただけましたら幸いです。







 映画『東京喰種』は、永近英良(ヒデ:小笠原海)を巡る、喰種・西尾錦(ニシキ:白石隼也)とのバトルで倒れた金木研(カネキ:窪田正孝)が「人肉」を与えられて目覚めるところで、前半部と後半部に分けられると思います。

 今回は後半部の感想をつらつらと書いてみます。





 「君は人間と喰種、ふたつの世界に居場所を持てる、ただひとりの存在なんだよ」



 映画『東京喰種』で、私が解釈に迷っているのがこのセリフです。

 ヒデを傷つけ、食べようとするニシキをかろうじて退けたものの、飢えが祟って親友であるヒデに食欲を募らせるカネキ。現場に駆けつけたトーカと四方のおかげで悲劇は回避されましたが、カネキは芳村店長(村井國夫)にヒデと接触しないよう忠告されます。

 両親がいないカネキがただひとり交流をもっているのが、小学生時代からの親友・ヒデ。ニシキに彼を殺されそうになったことが、カネキに喰種としての武器・赫子を出現させ、戦闘能力に目覚めさせたほど、ヒデはカネキにとって大切な存在です。そのヒデに「会いに行くな」と忠告するのは、つまりカネキは「人間としての居場所」を失ったということではないのか。

 芳村店長ほど喰種と人間を見てきたであろう人が、喰種であるかぎりヒデの側へ、引いては人間の世界へ戻れないと悟って絶望するカネキに、気休めにこのセリフを告げるとは思えず、真意を計りかねています。



 人間として20年近く生きてきて、食べ物に困ることなく、「人間を害してはいけない」という倫理観を極自然に身に着けているカネキ。それが突然、喰種の臓器を移植されて半喰種となり、人間の食べ物を受け付けない身体になったのに、人間の倫理を振りかざして「人間の肉は食べたくない」と拒み続ける。

 こんなカネキは、トーカ(清水富美加)がケーキを投げつけて味を問うた態度が示すように、むしろ「人間でもなく喰種でもない、ただひとりの存在」と言われるのが普通ではないかと思うのですね。



 狩られる人間の気持ちと狩る喰種の気持ちがわかるということかとも考えましたが、それってむしろ辛いよね、厳しいよね、どちらにも居場所があるなんて思えないよね、ということで、私には映画に描かれた範囲内では解釈できかねるセリフなのです。



 このセリフが成立するのは、芳村店長が「喰種と人間が共存できる世界」を目指しており、カネキにその交渉者となることを期待している場合だけでしょう。しかし、「喰種と人間が共存できる世界」って、喰種が人間から人肉を安定供給されるシステムを作る以外になく、芳村店長がそんな甘いことを夢見るとも思えません。



 では、赫子と傷ついてもすぐ再生する肉体という喰種の能力をすでに手に入れたカネキが、人間世界に居場所を確保できる方法とは? たとえば、「大食い」リゼのように生きるためだけでなく、快楽で人間を殺し、人間の憎悪を増幅させ、喰種の存在を危うくさせる「逸脱者」を倒すことしかないのでは、と考えます。



 さらに、喰種の生き方を教わるために「あんていく」で働きだしたカネキは、笛口親子の悲劇を通して、喰種を駆逐するCCG(喰種対策局)という存在を知ります。

 自殺者の肉で飢えをしのいでいた、人間の親子と変わりなく情愛に満ちた母娘。その母親を無惨に殺したCCGへの復讐に殺意をむき出しにするトーカもまた、彼女を心配する友人が作った料理を後の苦しみを覚悟で美味しそうに食べる、やさしい少女でした。

 いつしかカネキの心の中で少なくとも「あんていく」に集う喰種は守るべき存在になっており、CCGの亜門鋼太朗(鈴木伸之)の喰種狩りを阻止するため、その前に立ちはだかります。



 カネキ君、なんだか巧妙に「あんていく」の喰種を守るよう誘導されてないかと感じてしまうのは穿ちすぎでしょうか。





 映画のパンフレットによると、カネキのような後天的にも、あるいは人間と喰種の交配によっても、半喰種になる確率は非常に低く、「もし誕生した場合には、純血の喰種を上回る高い能力を持つといわれている」そうです。

 カネキがその臓器を移植されたリゼは「大食い」の異名を持ち、命を維持するためだけでなく、快楽を求めて人間を狩る喰種。飢えに苦しんでも、人間を襲えないどころか、人肉すら口にできないカネキとは、幸か不幸かまるっきり正反対です。



 この作品で面白いなと思うのが、カネキに移植された臓器にリゼの意思が宿っていること。カネキが激情に駆られたり、生命の危険にさらされたりすると、精神がリゼに侵食され、快楽的殺人衝動に染まっていきます。これこそが、『東京喰種』の変身譚としての醍醐味ですね。虫も殺せない童貞男子が、肉体は男性のまま、血に酔いしれる妖艶な女喰種に変貌する。

 ニシキが変貌前のカネキに「女の喰種みたいな匂いがする」と言いましたが、カネキは移植手術によってリゼと融合し、精神性において両性具有(アンドロギュノス)になったのではないかと思うのです。



 リゼがカネキを捕らえて食べようとするとき、吐血して血まみれのカネキの顔を舐め回します。音を立てて唇が吸いつくさまは、食欲だけでなく快楽をも感じさせるものでした。

 そして、血まみれのヒデの顔を我を失ったカネキが舐め回すシーン。一心不乱に舌を動かすさまにカネキの顔を舐め回すリゼの姿がオーバーラップして、「ああ、リゼが憑依している」と戦慄したのですが、あれが台本にあったものではなく、カネキ役の窪田さんのアドリブだったとは! とすると、その後の亜門の顔を舐め回すシーンも……。



 理性を失ったカネキを侵食するものがリゼであることは、狂ったような高笑いや自分の口に血に塗れた指を入れてしゃぶるしぐさに加えて、あの獲物の顔の血を舐め回す陶酔感が決定打でした。

 当然、演出プランで決められていた演技と思いきや、「ヒデを食べようとする」というト書きから窪田さんが思いつかれたことだったんですね。



 この「リゼに侵食された状態」というのは、人間を傷つけたくない、食べたくないという現時点のカネキにとって、恐怖でもあり、救いでもあるはずなんです。相手に致命傷を負わせるだけの技量や覚悟がなければ、ニシキのような喰種や亜門のような対喰種の戦闘員とは渡り合えません。追いつめられたときに自分に代わって戦ってくれるリゼは、カネキにとって「あれは自分ではない」と逃げられる存在であるわけです。ただ同時に、上手く理性を取り戻して「僕を人殺しにしないで」と懇願しないと暴走し続ける、恐怖でもあるわけですね。



 カネキの真の成長とは、人間としての部分は自分、喰種としての忌まわしい部分はリゼ、と切り離して考えている「逃げ」を、どちらも自分であると認めることだと思います。

 まだその段階ではないカネキの「リゼに侵食されている感」は、「僕を人殺しにしないで」というセリフや赫子で自身を傷つけて亜門への殺人衝動を止める行為の必然性の基(もとい)となるもの。だからこそ、リゼらしさを踏襲した「流血した顔を舐めるしぐさ」は演出プランになければならないはずなんです。



 もしかしたらカネキとリゼの精神的融合感は原作マンガではそれほど描かれていないことなのでしょうか。

 それでも、映画として「僕を人殺しにしないで」というセリフで亜門との戦闘を締めるなら、窪田さんのアドリブは整合性を救う「グッジョブ!」。物語の裏側にあるキャラクターの「あり方」の流れを把握して、演出指示でもなければなかなか思いつかないし、思いついてもやりにくい、タガの外れた芝居をこなしてしまわれるところ、彼が「天才」と言われるのもわかる気がします。





 映画の冒頭は、光の入っていない茫洋とした目をしていたカネキ。CCGの亜門を退け、ヒナミを守って「あんていく」に帰りつくことができた彼は、かつてヒデが座っていた席に視線を送り、それから芳村店長やトーカたち喰種を見つめます。その目にはしっかりとした光が宿っていました。

 萩原健太郎監督は、本作のテーマについて「“見る”ということがどういうことなのかを描きたい」「“見る”ということは“知る”こと」と語っておられます。だから、目から始まり、目で終わったのだ、と。



 映画館で『東京喰種』を観た観客もまた、喰種という存在について、そしてカネキが人間から半喰種になった顛末について目撃しました。ここまではプロローグですよね。
 映画はきれいに完結していますが、カネキはじめ「あんていく」のメンバーにも、真戸を殺された亜門にも、「これから」の物語があるでしょう。それをぜひ観せていただきたく、第2、第3の続編を心待ちにしています。





 ということで、後半戦終了です。結構な長文になってしまいました。文字数が決まっている仕事の文章じゃないと、ついダラダラ書いてしまう、悪いクセ。ここまでお読みいただいた方にはお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

 しかし、まだ書ききれていないんですよね。どれだけ書くことがあるんだ、『東京喰種』! もし4回目とか観に行ったら、「ロスタイム」として補足するかもしれません。





<参考>

「超特急の小笠原海窪田正孝に顔をなめられて驚く」シネマトゥデイ

https://www.cinematoday.jp/news/N0093108

小笠原海(超特急・カイ)、『東京喰種』で窪田正孝の想定外の演技に驚嘆」エンタメステーション

https://entertainmentstation.jp/news/100908

「『描きたかったのは“見る”ことがどういうことか』 映画「東京喰種 トーキョーグール」萩原健太郎監督に聞いた」ねとらぼ

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/28/news016.html





公式サイト:http://tokyoghoul.jp/






映画『東京喰種 トーキョーグール』前半戦 こんな「変身譚」、観たことない!



 ※ ネタバレしています。映画を未見の方はご注意ください。

 ※原作未読です。以下は、映画と映画のパンフレットを元にした「感想」です。原作既読の方には、映画と原作の(当然起こりうる)差異による解釈の違いを寛容な目で楽しんでいただけましたら幸いです。






 実写映画『東京喰種 トーキョーグール』は、永近英良(ヒデ:小笠原海)を巡る西尾錦(ニシキ:白石隼也)とのバトルで倒れた金木研(カネキ:窪田正孝)が「肉」を与えられて目覚めるところで、前半部と後半部の二部に分けることができると思います。

 今回は前半部の感想をつらつらと書いてみます。



 普通の人間である主人公がなんらかの事情で「人間ではないもの」になってしまうシチュエーションを扱った作品は、ヴァンパイア(吸血鬼)ものをはじめ、映画なら『ザ・フライ』や『スパイダーマン』など枚挙にいとまがありません。

 私が仕事で関わった『薄桜鬼 〜新選組奇譚〜』も、時代に追い詰められていく新選組の隊士たちが、変若水を飲み、羅刹(半吸血鬼)に変化(へんげ)するという物語でした。



 映画『東京喰種』もそうした物語のひとつ。と言えば、「主人公が、人間であったときの記憶(精神)と(人間の敵となった場合や人間の恋人ができた場合など特に)人間ではなくなった現実とのギャップに苦悩し、葛藤する話でしょ」とまとめられそうだし、確かにテーマはそうなのですが、この映画はひと味違うんですね。

 人間から人間ではないものへの変化。これまで「自分は人間なのか、違うモノなのか」と精神的に葛藤してきた主人公は多々あれど、その変化をこの映画ほど「生理的な苦しみ」を通して描いた作品はあっただろうか。私は寡聞にして知りません。



 人間を捕食する、人間の姿をした喰種(グール)。「大食い」と呼ばれる喰種・神代利世(リゼ:蒼井優)に襲われたカネキは、事故に遭遇して死んだリゼの内蔵を移植されて一命を取り留めます。目覚めたカネキを襲ったのは、「食べられない」恐怖でした。

 これまで口にしてきたすべてが「馬の糞」のような味になり、それでも無理に飲み込むと身体が受け付けず、すべて吐いてしまう。嘔吐の苦しさは私も知るところですが、それが食べる行為にもれなくついてくるというのは、想像しただけで胃が絞られる心地がします。

 それでも食べないと当然飢えます。喰種が飢えを満たすには、人間の肉を食べること以外にありません。ジェリコーの名画「メデューズ号の筏」や映画『生きてこそ ALIVE』の元となった実話などを引き合いに出すまでもなく、飢餓は「生きるために(人間を)食べるか、食べずに死ぬか」という生物として究極の選択をカネキに迫ります。



 カネキを演じた窪田さんの凄みをまず感じたのは、この飢餓の表現。現代人のほとんどがそうであるように、窪田さんも生きるか死ぬかの飢餓状態に追い込まれた経験などないはずなんですよね。

 「自分には人間を殺せない(=食べ物を手に入れられない)」とわかっていても、夜の町を徘徊し、往来する人間の剥き出しの腕や足を凝視し、涎を垂らしながら舌舐めずりをするカネキ。ふらふらと足元がおぼつかないゾンビのような姿は、理性が失われ、生存本能にただただ引きずられるさまをこれでもかと見せつけてくれます。それは、読書好きで引っ込み思案だったカネキだからこそ、不気味さも痛々しさも倍々増の壊れっぷり。



 つい『ジョーカー 許されざる捜査官』の椎名高弘を挙げてしまうのですが、窪田さんは本当に「狂気」の芝居が上手い。役のためにここまで理性のタガを外してしまえる俳優さん、ちょっといないと思います。



 人間が人間ではないものに変わる。それを悲劇に描いた作品は多々ありましたが、『東京喰種』を観たあとだと、それらはどこか「主人公の宿命」のような、ヒロイックファンタジー的な描写だったと感じます。吐瀉物に塗れ、飢えにのたうち回り、涎を垂らして徘徊し、「助けてくれ」と土下座し、今は食べられなくなった食べ物を投げつけられる、変身譚のこんな主人公、初めて見ました。



 飢えに苦しんで苦しんで苦しんだ挙句に、一杯のコーヒーに辿り着く。カネキが、また嘔吐の苦痛に襲われるんじゃないかと怯えながら口をつけていくシーンは、絶望に塗りつぶされた真の闇に、淡い光が灯るようでした。実際、あのシーンは、救いの光が灯る、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「悔い改めるマグダラのマリア」(ナショナル・ギャラリー蔵)を見るようでしたね。



 さらに、「肉」を受け取りはしたものの、食べるか食べないかで逡巡するところ。飢えに負けて冷蔵庫から取り出した肉の、まず匂いを嗅ぐんですよね。ここで『ふがいない僕は空を見た』を思い出しました。母親に生活費を持ち逃げされた福田良太が空腹に耐えかねてコンビニの弁当を手に取るシーンでも、福田役の窪田さんはまるで舐めるかのように匂いを嗅ぐのです。

 自分で食べることを禁じたモノの匂いを嗅ぐ、という芝居はどこから生まれたものか。猫や犬といった動物は目の前にあるものについてまず匂いを嗅ぎますが、つまり生存本能=動物的本能という表現なのでしょうか。これ、窪田さんのアイデアだとしたら、とんでもない役者さんだなと思います。



 さて、窪田さんがここまでカネキの追い詰められっぷりを映像に刻んでくれたおかげで、人間としての倫理観や記憶を持ちながら、人間を捕食しなければならなくなったカネキの悲劇はもとより、観客は人間しか食べられない喰種の悲劇も理解します。

 人間を襲えない笛口親子の気持ちや、そのふたりに「肉」を与える芳村(村井國夫)の「喰種の駆け込み寺」のリーダー的な人望、友人の心尽くしの肉じゃがを嘔吐の苦痛覚悟で食べる霧嶋菫香(トーカ:清水富美加)のやさしさ、仲間のために黙々と死体を探しては持ち帰る四方蓮示(柳俊太郎)のストイックさ。
 カネキの苦しみを見てきただけに、喰種の助け合いのシステムや思いやりを観客も救いに感じて、リゼやニシキを通して喰種に忌避や恐怖を感じていたのが、一気に喰種側に気持ちを持っていかれる。まさに監督や窪田さんの「計画通り」なわけですね(笑)。そして、主観次第で「善」と「悪」が一瞬にして入れ替わる、この危うさこそが、映画『東京喰種』の裏テーマではないかと感じています。



 立川シネマシティの「極上爆音上映」で鑑賞したときは、病院で目覚めたカネキの腹の虫の音はきゅるきゅるくらいだったのが、それからずっと低音通奏のように鳴り続けて、ニシキとの戦いのあたりではぐるぐるとまるで喰種の唸り声のようでした。それが、「肉」を与えられてぴたっと止むんですね。赫子(かぐね)を出現させたとき以上に、カネキが完全な「半喰種」になったことを感じさせて切なかったです。



 前半部だけでこれだけ書くことのある映画『東京喰種』、恐るべし! この映画はたぶん、後々「劇場公開されているときに観ておけばよかった」という作品になりそうです。「だったら、今観ればいいじゃん!」ということで、未見でこれを読んでしまった方は、ぜひ劇場へ行かれてください。





 後半部は追々。『サイボーグ009』などを見て育った世代にとっては、「目覚めると人間ではなくなっていた」はイコール「ハイブリッドな人間兵器にされた」なんですよね。意味ありげに患者の枕元に立っている医者は要注意です。

 というあたりを書こうと思っています。





公式サイト:http://tokyoghoul.jp/