Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

読めない作家の読めない理由

 本日はいつにもまして自分語りばかりです。我ながらうざい(笑)。ある作家の訃報を聞いてから、なにやらもやもやしていたことを取り留めもなく書き連ねていますので、よほどに興味のある方だけ、どうぞ。栗本薫中島梓)の作品のファンの方は、お読みにならないほうがよろしいです。




 私には、今の仕事に導いてくれた(と思う)ふたつの言葉があります。
 ひとつは、小学5、6年生のとき、担任だった先生に言われたこと。この先生、中学受験を控えた2年間を受けもつだけあって、かなり年配のベテランの女性教諭で、特に国語について独特の指導法をもった方でした。
 それは、国語の教科書の全文をノートに2行ずつ開けて書き写させ、開けた2行の部分に一文一文の感想を書き込ませるというもの。これ、大嫌いだったんですよ。ものすごく時間がかかるんだもん。6年生の夏休みだったか、30ページ分ほどある文章についてこの宿題が出たおりには、ノートに写しはしたものの、途中で息切れして全文の感想は書ききれませんでした。
 今でも鮮明に記憶に残っているくらい、私には無茶ぶりに思える指導だったのですが、『セキレイの歌』の読書感想文で全国コンクールの優秀賞だかなんだかをいただいたってことは、それなりに成果があったのでしょうか。おかげさまで、以降、現代国語で困ることはありませんでした。……古典と漢文は散々でしたが!
 その先生に「文章書くの、向いてるんじゃない?」と言われたことが、今思えば出発点だったのかなあと思います。


 ふたつめは、大学生のとき。学内誌の編集をしていた同期生に、論文の掲載許可を求められたことがありました。その際に「あなたっておもしろい感性してる。で、それを文章で表現できてる。私があなたの論文を選んだのは、おもしろくてわかりやすかったから」とか言われたんです。掲載許可を取るための世辞だろうと思いつつ、悪い気はしませんでした。試験代わりの論文提出の場合、ABCの評価は返ってきますが、教授から「おもしろい」とか「わかりやすい」といった反応をもらうことはなかったので。
 ちなみに、その論文は「アルベール・カミュの『異邦人』に見るキリスト教的モラルの崩壊──文明形成期における宗教の存在意義」がテーマでした。……おもしろい?


 はっきり言ってね。自分が書いた文章がおもしろいか、わかりやすいかなんて、未だに判断つきません。意図したことが誤解なく伝わるように、わかりやすくあるように心がけてはいますが、それが読まれた方にどう受け取られるかなんて、さっぱりさっぱり。
 雑誌や書籍に挟み込まれた読者アンケートなどは外部の編集やライターの手元まで来ませんから、もっぱら「2ちゃんねる」の該当スレッドを見たり、mixiの日記や個人blogを検索して、読者の反応をチェックしています。意図したとおりに受け取っていただいていることがほとんどですが、ときには予想外の物議をかもしていて驚くこともあります。

 ただ、過去に言われたふたつの言葉だけを寄りどころに文章を書いてきた私にとって、確かだったのは「私は文系人間である」ということでした。的確な言葉選びと、テンポのいいリズムとスムーズな流れで気持ちよく読み下せる文章が求められるところであり、私の筆力が試される部分だと思っていました。いわゆる「考えるな、感じろ」的な。


 それが覆されたのが、去年の夏。情報処理システムの構築を行なっている会社の社長さんにインタビューしたときのこと。「新卒採用ではどのような人材が欲しいか」という話題のなかで、「やはり論理的な思考をもった方を望まれますか? 文系より理系のほうがより即戦力になるとお考えですか?」と尋ねたら、「この仕事は論理的な思考をもっていないとできませんよ。でも文系理系は関係ないですね」と返ってきました。そこで「そういうものですか? 私など文系の人間なので、情報処理に必要な論理的思考というのが想像もつきませんが」と軽く締めようとしたら、「そんなことはないでしょう。モノを書く人は論理的思考をもっているはずですよ。でないと、他人に文字でなにかをわからせるなんて到底無理でしょう」と言われたんですね。
 はっとしました。そう言えば、私は基本的に「三段論法」で記事を書いているな、と。「AはBである。BはCである。よって、AはCである(CはAである)」。人になにかを納得させるのに、いちばん手っ取り早い論旨展開の方法です。
 もうひとつ。小説やマンガの紹介記事にしても、アニメやゲームのムック本にしても、インタビュー原稿にしても、まずは作品や取材ソースからテーマをすくい出して、そこから読み手に「この記事で言いたいのはこういうことである」と伝えられるように流れをつくっていきます。この部分でこの事実を書き、ここであのことを書き、次にこう書いて、こう締める。「ああ、なるほど。これはフローチャートつくってるのと同じことか」と、へええと思いました。


 文系(概念的解釈)と理系(実証的解釈)は、ひとりの人間のなかに同居できるものであるらしい。そして、社長さんの論を借りれば、「情報を正確に伝える」ことを使命とするライターは、論理的思考を備えているべきであるらしい。
 となれば、この稼業を曲がりなりにも20年続けてきている私も、それなりに論理的思考回路をもっていると言っていいかな、かな?


 さて、私にはどうしてもその作品を読みきることができない作家がいました。
 加藤直之のイラストに惹かれて購入した『グイン・サーガ』は、10巻くらいで挫折(惰性で15巻くらいまで買っていたかも)。ミステリーだと思って読んでみた「伊集院大介」シリーズは、第1作目の途中で挫折。評判を聞いて書店でパラ見してみた『天狼星』は、その場で挫折。友人が編集していたので試しに読んでみた『終わりのないラブソング』4巻(角川ルビー文庫から出た1作目)も、途中で挫折。
 1冊読んで「私には合わない」と判断して、それっきり作品を手に取ることがなかった作家は数えきれないほどいます。でも、ここまで何度も読もうとチャレンジしてダメだった作家は、栗本薫中島梓)以外にいません。「性に合わない」と言ってしまえばそれまでですが、なぜこんなにもダメなのか。


 その答えは、端的に言えば、彼女の作品に論理的な帰着点を見出せなかったからってことだったみたいです。読む人に自分の書いていることをわかりやすく伝えよう、「読む」という作業の苦痛をできるだけ軽減し、物語を楽しんでもらおうという努力が感じられなかった。「小説はエンタテインメント」をキャッチフレーズにしているわりには、彼女の作品が読み手を楽しませるという意図をもって書かれているとは、私には思えなかったのです。
 作家の視点というカメラがひたすら撮りたいシーンだけを撮り続け、それを整理することも編集することもなしに、読み手に見せつけてくる。他人の想像世界(妄想と言ってもいい)をただ「考えるな、感じろ」と押しつけられることに、私のなかにあるらしい論理的思考回路が拒否反応を起こしていたのかと、20年以上を経てやっと理解できました。


 筒井康隆平井和正高千穂遙菊地秀行野阿梓田中芳樹あたりは読んでいましたが、高校から大学にかけてミステリーを中心に翻訳ものに傾倒していたため、私は当時活躍していた日本の作家についてまったくと言っていいほど知りません。
 栗本薫中島梓)の名前も「ハヤカワ文庫で100巻完結予定のファンタジーグイン・サーガ』を書いている人」「『June』で小説道場とかやってる人」というくらい。ずいぶんあとになって、世間では「史上最年少の江戸川乱歩賞作家で、ジャンル問わずの多作の才媛」と評価されていると知りましたが、まったく感銘を受けませんでした。だって実際に読んでみて、ことごとく挫折しましたからな。
 栗本薫中島梓)に対する世間の評判と私の判断のずれの大きさを認識したときから、ことプライベートで読む小説とマンガに関するかぎり、私は世間の評価より自分の感性を信用するようになりました。限りある資本(財布のお金)を自分に合わないとわかっているものに投資できませんよ(笑)。


 まあ、ことほどさように、去年の夏、私は思いがけないきっかけから「なぜ自分が栗本薫中島梓)の作品を読めないのか」という長年のナゾに決着をつけることができたのです。
 『グイン・サーガ』が正伝だけで100巻を越えたときに「終わらせる気がないんだな」と思い、このたびの訃報で「ああ、やっぱりな」と思い。結局、きれいに完結をみた作品はどのくらいあったのだろうと、ちょっと遠い目になってみたり……。
 私の人生に欠片の影響もなかったはずの作家なのに、訃報を聞いてから二週間、なんだかざわめくものを感じるので、この駄文を書き散らして再び忘れることにします。
 書き手は常に読み手の視点を忘れてはならない。小説をエンタテインメントと標榜するなら、舞台裏である<自分>を見せてはいけない。
 ある意味、私にとって反面教師のような存在であるのかもなと思いつつ。