Diary For Paranoid @ hatena

思いつくまま書くブログ。最近は窪田正孝出演作品感想に特化してます(笑)。

『ヒモメン』第1話は「この手で来たか!」のオンパレード


働き方改革」ってなんだ!? 「働き改革」とは、端的に言えば、ひとりが残業して担ってきた仕事を複数でシェアし、残業ゼロで家庭で過ごす時間を増やすことで、生産力を維持し、出生率を上げようってことでしょう。番組のキャッチの「働かないという、働き方改革。」ってなんなんだ!? というのが、第一印象(「そこから!?」って、自分で自分にツッコミましたよ、ええ)。

私が原作に感じた“毒”は、翔ちゃんが「自分さえよければいい」という真意を隠しもせず、口だけでゆり子を言いくるめようとするところ。あと、ゆり子が「こんなにダメだけど、翔ちゃんが好き」で許すことで、「女性は、愛さえあれば、なにをしても許してくれる」なんて、勘違いしがちな“男性にやさしい”マンガだなと思ったのですよね。
さらに、「皮肉な目で見た、男性と女性の役割逆転劇」とまで言ったらきな臭くなるので、これ以上はツッコミませんけど。


そんなわけで、「たぶん不快になる」と海抜ゼロどころか日本海溝くらいの期待値で観たからか、意外に「悪くない」と感じました。
ちびまる子ちゃん』や『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』のような、ナレーターのツッコミ待ちのコメディ。ナレーションにキートン山田を起用するところが確信的で、「なるほど、その手があったか!」と手を打ちました。

原作は一話一話が短く、ゆり子が翔ちゃんを更生させようと繰り出すあの手この手を、彼がことごとく撃墜するというコメディ。ドラマ化で一番気になったのが、あの短い話を一話40分にどうふくらませるのか、ということです。
それは、ゆり子が髪を乾かして、気持ちよく眠りにつき、そして「何も解決してない!」と(心の中で)叫んで飛び起きる=オチという形で複数のコメディ・シチュエーションをつなげることで解決。これまた「その手があったか!」な方法で、よく考えられていると思いました。

よくある恋愛コメディに見せながら、毒あり、ツッコミナレあり、4コマ的オチありで、『僕たちがやりました』に続いて、またしても実験的作品に窪田正孝抜擢かあ、と。まあ、テレビ朝日の「土曜ナイトドラマ」は『ココだけの話』とか『オトナ高校』とか『おっさんずラブ』とか、かなりとんがった作品枠という印象があるのですけれども。


さて、窪田さんの翔ちゃんですが、Tシャツに短パン、トレーナー姿でポン太ぬいぐるみを枕にゴロゴロしているのがデフォだからか、ご本人もリラックスして演じられている様子。気が抜けた役だからか、肩の力がいい感じに抜けていて、こちらも気楽に観られました。
ゴロゴロしているわりには、突発的に動くときの跳び方とか走り方とかがキレッキレで、翔ちゃんに“やればできる子”的な魅力を加えているのが大変よろしい。原作の翔ちゃんは今ひとつ、ゆり子がコイツのどこに惚れたのかわからないのですが、窪田翔ちゃんなら、ダメ男と見抜けず惚れちゃうのも、「ステキな彼氏」と自慢しちゃうのも、結婚を夢見る気持ちもわかります。
勝地涼の「こんなかわいい顔で甘えられたら、飼っちゃいたいなと思いますよね」は決してお世辞ではなかった!(笑)

ちなみに碑文谷翔は外面だけは良くて、「IT企業の社長」などと名乗ったりするのですが、第2話予告の窪田翔ちゃん、楽々クリア!(わかってたけど)
3週間前(実家を追い出されて、ゆり子の家に転がり込んでくる前)の翔ちゃんがこんなにパリッとしていたなら、その過去を知るからこそ、ゆり子が彼を許してしまうんだ、期待してしまうんだとわかります。わりと、ここ、重要。


役柄とは別の意味でも、窪田さんの翔ちゃん役には期待があります。少々偉そうな物言いになり恐縮ですが、窪田さんには「力の抜けた演技」を会得してほしいと密かに願っていたので、『ヒモメン』は「出会うべくして出会った」作品と感じています。
役にのめり込む彼の演技は、架空のはずのキャラクターがリアルに生きているがごとくの話し方、立ち居振る舞いに魅力があるのですが、時に肩に力が入りすぎて、人間としてはありでも、視聴者や観客に見せる作品の中に存在するキャラクターとしては、観るのが「しんどい」と感じるときがたまにあります。個人的なところを言えば、『僕たちがやりました』の最終話が「しんどい」。
もうちょっと「どう見せるか」より「どう見られるか」も考えて、力の抜き方を体得してほしいなと思っていたところで、“抜き”が必要な翔ちゃん役はジャストでした。『ヒモメン』を経てまたぐっと役の幅が広がるのではと、早くも確信しています。


ゆり子を演じる川口春奈はかわいいし、演技のテンポもいいし、キレたときのギャップもまたいい! 私には「金田一少年の事件簿」シリーズの七瀬美雪役の印象が強くて、天然っぽく見せつつ、いざとなったら男性に喝を入れる女性役はぴったりと感じます。ヒモ飼い先輩でもある田辺先輩(佐藤仁美)が、今後、どのようなアドバイスをくれるのかも楽しみです。
尾島看護師長(YOU)の見事すぎる手のひら返しに、ステキ狂言回しっぷりがこれからも期待の池目先生(勝地涼)など、病院サイドの人間関係が面白い。原作でダメンズ好き(ダメウーマンも好き)な後輩がドラマの浜野(岡田結実)なら、ますますカオスになりそうです。


気になるのが、このドラマの落としどころ。翔ちゃんが働いちゃったら、ありきたり。相変わらず翔ちゃんはヒモのまま変わらぬ日々が続くと締めるにしても、ドラマとしてどこかにカタルシスは必要でしょう。どのようなシチュエーションをクライマックスに置いて、どう着地させるのか。それがわかるまで(つまり最終回まで)、追いかけるつもりです。


http://www.tv-asahi.co.jp/himomen/

『アンナチュラル』についてのツイートまとめ その2



 自分用の整理に『アンナチュラル』についてつぶやいたツイートをまとめてみました、第2弾。第6話〜第10話分です。「後半は下手なことを書かないようにしよう」と決意していたにも関わらず、書きまくってました(特にリプライツイートに……)。やっぱり安定の深読み(過ぎ)斜め読み(過ぎ)誤読っぷりが笑えます(苦笑)。

 気づいた誤字・脱字を修正。本筋に関係のない内容のものはまとめていません。

 最終回を迎えた今では意味のないツイートですが、ご興味のある方は、「続きを読む」からどうぞ。相当長いです。

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『アンナチュラル』についてのツイートまとめ その1



 自分用の整理に『アンナチュラル』についてつぶやいたツイートをまとめてみました。第1話〜第5話分です。意外にたくさん書いていてびっくりです。そして、最終回を迎えた今では、毎度安定の深読み(過ぎ)斜め読み(過ぎ)誤読っぷりが我ながら面白すぎます(苦笑)。

 気づいた誤字・脱字を修正。本筋に関係のない内容のものはまとめていません。

 最終回を迎えた今では意味のないツイートですが、ご興味のある方は、「続きを読む」からどうぞ。長いです。

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『アンナチュラル』が特殊な理由を考えてみた



 TVドラマ『アンナチュラル』の魅力は数々ありますが、私が注目しているひとつは、連続殺人を起こさずに事件を解決している点です。

 ひとつめの事件では糸口がつかめず、ふたつめ、あるいはみっつめの事件の類似を探ることで解決に導くのは、サスペンスドラマの常套手段。それにより事件の難解さ、犯人の狡猾さや非情さを際立たせることで、視聴者をハラハラドキドキさせ、対峙する探偵役を不可能に挑戦する頭脳明晰なヒーローとして印象づけます。



 逆を言えば、事件解決のために死体が作られているかに見えるサスペンスドラマが多いなかで、『アンナチュラル』は“ひとりの遺体”の死の原因を突き止めることに終始しているのが特殊。死因特定のためのさまざまな分析作業……第1話の毒物判定や血液などの体液検査、組織培養など、「結果が出るまでの時間」を探偵が証拠を見つけていく過程に置き換えて、ただひとりの遺体、ただひとつの事件を解いていく。

 これは、本格派や社会派が誕生する以前、シャーロック・ホームズ作品等の古典派の物語の進め方。そう思えば、ミコトたちUDIメンバーは、ホームズが科学の知識や人間観察法を駆使し、虫眼鏡で事件現場をくまなく見るがごとく、遺体から手がかりを得ようと観察し、分析し、記録しています。

 第7話に登場したホームズシリーズの1作「ソア橋」は実に暗示的でした。



 私が好きなドラマのひとつ、『科捜研の女』では、沢口靖子演じる榊マリコがヒントを思いつくと、メンバーが一昼夜ほどの実験分析で彼女が望む結果を出しているように見えます。

 実際は何日もかかる鑑定もあり、モノによって鑑定結果が出るまでの時間が違うことを、逆手に取って物語の節目に置いたのが『アンナチュラル』だと思うのです。



 BBCの『シャーロック』がホームズを自称「高機能ソシオパス」として21世紀のロンドンに生まれ変わらせたものなら、『アンナチュラル』は医学・薬学・犯罪医学の最先端が集まるUDIラボにおいて、「死因のわからない死などあってはならない」と理想を掲げ、知識と観察力で真っ向から不自然死に挑む、誠実で実直で不器用な“ホームズ”たちを描いたものではないか。

 ミステリータッチのサスペンスドラマを制作するにあたって、第二、第三の事件を起こさなくても(物語のために死体を作らなくても)、ひとつ、またひとつと発見があり、謎が解かれていく展開はできるのだと、ひとつの見本を見せられているような気がします。



 さて、第1話からの通奏低音である「赤い金魚」。中堂の恋人が巻き込まれているからこそ、ただの「連続殺人事件」ではなく、中堂の「永遠に答えのない問い」が決着するのか、の大きな命題を含んでいます。これ、単なる連続殺人事件ではなく、メインキャラクターの過去を絡ませたところに、物語の展開のためだけ(探偵をヒーローにするためだけ)に死体を作らないという意志を感じるのですが、考えすぎでしょうか。

 ともあれ、「事件を解決する」のではなく、「この人はなぜ死んだのか」を探ることにこだわってきた、この作品。「赤い金魚」の謎の果てに何が待ってるのか、刮目して待機しています。



 『アンナチュラル』公式サイト http://www.tbs.co.jp/unnatural2018/


『HiGH&LOW THE MOVIE 3/FINAL MISSION』スモーキーという幻想 後編



 HiGH&LOW THE MOVIE 3 / FINAL MISSION』のネタばれありです。未見の方はご注意ください。




 TVドラマから劇場版までを通して、『HiGH & LOW』シリーズの表の主人公は山王連合会の総長・コブラ、裏の主人公は元ムゲンの総長・琥珀。それは異論のないところでしょう。



 コブラは『THE MOVIE 2』まで「負けなし」でした。

 ヤマトとチハルのために鬼邪高校の番長・村山とタイマンで張り合って勝利。山王連合会をつくるきっかけであった幼なじみのノボルを、敵対する立場から再び仲間として迎えることに成功。龍也の死で復讐の鬼となり、その手段としてSWORDを襲撃した琥珀を、ヤマトと九十九と共に熱い拳の応酬で救済。「SWORD協定」を断り、宿敵・DOUBTとプリズンギャングにWhite Rascals単独で立ち向かったROCKYを、間一髪のところで救援。

 「男同士は拳で語り合って理解し合う」「ケンカは相手と同様、自身も痛みを負ってこそ、本当の勝利と言える」「プライドを曲げて助けを乞うような真似をしなくても、察して助けてくれる、男の友情」という、『HiGH & LOW』の“美学”を体現してきたのがコブラでした。
 「俺たちは絶対に仲間を見捨てねえ」を有言実行して、どんどん大きくなる敵にも怯まず体当たりでぶつかり、一度は敵対した相手さえもことごとく救ってきたコブラは、常に「間に合って」きたのです。



 コブラの山王連合会の総長としてのあり方は、ムゲン初期の琥珀に似ていたと思います。「二人で走る時間が無限に続けばいい」と琥珀と龍也が作ったレーシングチームがムゲン。「ノボルが戻ってくる場所」としてコブラとヤマトが作った山王連合会。どちらも「頭はいない。誰もが平等」で、前者はバイク好きが、後者は山王街出身で山王街を愛する者たちが、同じ“好き”の思いを共有し、談笑し、自由に意見を言い合い、仲間や街にトラブルが起これば、一丸となって戦うという集団でした。

 しかし龍也の脱退をきっかけに、ムゲンがなくなることを恐れた琥珀によって集団は変質していきます。コブラもまた、SWORD地区全体を破壊しようとする九龍グループへの敵対心に捕らわれ、九龍グループを恐れる者、九龍グループが政府を焚きつけて推し進めようとする再開発に街の活性を期待して賛成する者の声に耳を傾ける余裕を失い、分裂を招きます。

 九龍グループと対抗するためにSWORDの各チームと協力関係を結ぼうとした「SWORD協定」は鬼邪高校の村山以外の賛同を得られず。日々寂れていく山王商店街は九龍グループに蹂躙され、「九龍に逆らうな」と自分たちを諌めてきたダンたちが襲撃され、山王連合会との決別を宣言する。追い詰められたコブラは、ひとりで龍也の敵(かたき)を討とうと暗躍した琥珀のように、チームを離れてひとりで克也会の会長を闇討ちするという暴挙に出ます。



 執拗で苛烈な拷問のなかでコブラが黒崎の勧誘になびかなかったのは、彼の敵対心と義侠心に鎧われた精神力が黒崎が惜しむほど強かったことに尽きるでしょう。が、もうひとつ、「家村会がスモーキーの命を狙っている」という情報を伝えなければならないという責任感もあったと思います。

 琥珀と九十九に助けられるや、すぐにスモーキーの危機をふたりに告げ、それが雨宮兄弟に伝わり、コブラはどこか安心していたと思います。RUDE BOYSがいて、雨宮兄弟がいて、琥珀と九十九がいて、自分を含むSWORDの頭たちも駆けつける。だから、今回も「間に合う」だろう、と。

 だから、“その場”に到着したとき、コブラの受けた衝撃は並々ならぬものだったと想像します。今まで「間に合ってきた」ことこそが奇跡(ファンタジー)であり、どんなに望んでも「間に合わない(救えない)」現実はあるのだと目の当たりにして……。

 「ああ、もう拳だけじゃ解決できねえ……」

 スモーキーの死は、コブラが体現してきた『HiGH & LOW』の「本気で救う気になれば、誰でも救える」というファンタジーを破壊しました。



 それは、九龍グループに、女を守るための砦だったクラブ「HEAVEN」を買収され、部下もろとも壊滅させられたROCKYにも、仲間たちを半殺しにされ、鬼邪高校の看板(校旗)を燃やされた村山にも、常に祭のような狂騒を醸していた賭場と手下たちを破壊され、「達磨不立」と揶揄された日向にも、さらなる打撃を与えました。

 山王商店街、クラブ「HEAVEN」、鬼邪高校、廃寺という、普通の人たちが普通の暮らしを営んでいる地域に拠点を構える4人にとって、名前と共に普通の生活を捨てた人々が集まる無名街は不明の地であり、治外法権という性質も合わさって「入っちゃならねえ」場所でした。そこに踏み込めば、いつの間にか狩られる。RUDE BOYSの「無慈悲なる街の亡霊」という異名は、何人いるのか、それぞれどんなケンカが得意なのか、正体がわからない恐怖を含んでいます。

 無名街という魔境の亡霊。自分たちとは一線を画した異質な強者と認識していたチームのリーダーが、九龍グループに殺された。それは、5人の頭とチームが拮抗していたG-SWORDの終焉を意味しました。

 スモーキーの命が失われたであろうときに、SWORD地区の街の灯が消えていったのは、実に象徴的だったと思います。



 しかし、同時に、RUDE BOYSのメンバーが誰ひとり損なわれず(頭たちはエリのことは知らない)、スモーキーだけが横たわっている事実に、彼らは何があったのかも察知したはずです。爆破され、破壊され、住人たちが追い立てられ、RUDE BOYSの掃討が行われた絶望的な状況にあって、スモーキーは膝を屈することなく、九龍グループと対峙して“家族”を守り抜いたのだ、と。

 自分たちの本拠地と仲間や部下をほぼ潰滅させられ、九龍グループの「大人のケンカ」を見せつけられて、「立ち上がるにも限度がある」と絶望していた4人の頭たち。しかし、その巨大な敵にひとりで立ち向かって、守るべきものを守り抜いた“仲間”がいる。自分はまだ生きているのに、一度は“守る”と決めたものを放り出していいのか。惨めに震えていていいのか。でも「もう拳だけじゃ解決できねえ……」。



 そこで出てくるのが、裏の主人公・琥珀。『THE MOVIE 3』は世代交代もひとつのテーマのようですが、この局面で“大人”に導かれることが、成長には必要ということでしょうか。

 琥珀が提案したのは、カジノ建設計画の裏にある、政府が九龍グループの力を借りて隠蔽しようとした、有害物資による環境汚染事件の暴露。それには3つの証拠がいる。薬品の臨床実験の結果を記した書類、事実を知る元研究員、有害物質に汚染された被害者。その3つすべてが無名街にある!

 役割を振られたRUDE BOYSとコブラたちに対して、日向は琥珀に「俺らはどうすりゃいい」と尋ねます。あの天上天下唯我独尊の日向が、うっかり作戦の邪魔をしてしまわないように気を遣ったのにびっくり。琥珀に「邪魔する奴は蹴散らせ!」と返されたら、九龍グループの足止め突破にアレを思いつくのがやっぱ頭脳派ですわ(後になって証拠持ち込みの段取りを政府や九龍グループに難癖つけられないよう、セレモニー会場至近での暴力沙汰を回避)。

 やることは決まった! コブラは未来の街のために。ROCKYは汚れた色に染まることなく女を守るために。村山は仲間や後輩たちの将来のために。日向は「最後の祭」のために。そして、RUDE BOYSは「家族の弔い」のために。

 奇しくも黒崎が口にした「再生には破壊がつきものってことか」が、九龍グループではなく、G-SWORDで実現されたのでした。





 ここで、ひとつの構図が見えてきます。

 SWORD地区にカジノを建設し、利権を独占しようと企む九龍グループ。そのために邪魔なG-SWORDの駆逐を命じたのは、総裁の九世龍心でした。彼は政治と癒着し、暴力で支配する、旧態な闇の力の象徴であり、その力はコブラをはじめG-SWORDの頭たちを無力感(あきらめ)に突き落とします。絶望が席巻するなかで、「(“家族”を)守る」ために最後まで文字どおり“立っていた”のがスモーキーでした。

 九世が黒崎に言った、「いつから俺たちは守るより奪うようになったのか」というセリフ。彼はおそらく戦後の混乱やバブル経済を知る世代。彼の始まりは、動乱する社会情勢のなかで家族を、女を、仲間を、街を、そして矜持を守ることだったのかもしれません。そして、守るべきものを失って、琥珀のように復讐のために闇の力に近づいたのか。あるいは、コブラのように守るべきものを守るために先に奪うことを決意し、それが常態化したのか。

 彼が変質させた「守ること」を、最後まで純粋に貫いたのがスモーキー。その姿に「街を」「女を」「仲間を」「矜持を」守りたいG-SWORDの頭たちは再起しましたし、振り返れば、九世もそうありたかった。九世の思いを受けた黒崎は、闇の力を求めることをせず、街を守り抜いたコブラに「負けた」と言うほかなかったのだと思います。

 「奪う」九龍グループの象徴が九世なら、「守る」G-SWORDの象徴はスモーキーで、そういう意味で対等かつ対照的な関係だったんだなあ、と。また、その死で、九世は息子・劉龍人、スモーキーはタケシという後継者を残したことも同じです。

 ちなみに、劉は自分が九龍グループにおいて台頭するために、DOUBTを利用してスモーキーに重傷を負わせ、また雨宮尊龍を殺した上園会会長をその不手際の制裁に瞬殺した人物。『HiGH & LOW』に今後があるとしたら、劉とタケシの邂逅が気になります。

 閑話休題。九世とスモーキーが象徴なら、実体は九龍グループが黒崎であり、G-SWORDがコブラであり、『THE MOVIE 3』の感情線においてはこのふたりが主人公でした。



 『HiGH & LOW』シリーズを通して、その成長が描かれてきたのはコブラですが、村山と日向も随分変わったなと思います。ふたりとも、G-SWORDの終焉を受け留め、ケンカ三昧の日々(祭)の終わりを予感しています。だから、村山はバイクに乗りたい(=ひとりになる)と思い、日向は加藤の「次の祭は?」の問いに答えませんでした。

 日向が「最後の祭」に打ち上げた真昼の花火。最後、空の一番高いところで緑の花火が花開き、その背後にオレンジの花火が広がったのは、スモーキーへの弔いと、刹那的に生きていた彼にケンカ(痛み)の先にあるものを教えたコブラへの餞(はなむけ)だったのかな、と。
 『HiGH&LOW THE MOVIE 3 / FINAL MISSION』、3年に渡るシリーズの終わりにふさわしい、余韻のある作品でした。





 以下は、わりと毒です。「なんでもバッチコーイ!」な方だけ、どうぞ。

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『HiGH&LOW THE MOVIE 3/FINAL MISSION』スモーキーという幻想 前編



 HiGH&LOW THE MOVIE 3 / FINAL MISSION』のネタばれありです。未見の方はご注意ください。



 I'll fight for my passion in life

 Give everything I have in me

  −from "Break into the dark"



 「自分の持てるすべてのものを与えたい。

  それこそが生きがい。そのために私は戦う」



 TVシリーズからスモーキーの“矛盾”が気になっていました。「俺たちは家族のため、生きることを決してあきらめない」と唱えるわりに、彼自身は生きようとしていないように思えました。

 シオンが掟を破ってまでレッドラムの製造に手を染めたのは、スモーキーの病気を治したい一心だったことを知りながら、「自分のためにすまない」と謝りはしても、そこまでの願いに応えようとはしません。

 ララもタケシもピーも医者にかかるよう口を酸っぱくして言ってきたはずです。実際、『THE MOVIE』で広斗に「このままだと、あいつ、死ぬぞ」と言われたララは、「わかってる。何度も言ってるんだけど……。命より家族が大切みたいだから」と答えています。

 無名街に侵入する者あらば、気配だけで追い立て、任意の場所に追い込んでいく。SWORDの他チームが持ち得ないワイドレンジフォーメーションが組めるからこそ、RUDE BOYS(以下、ルード)は「無慈悲なる街の亡霊」と呼ばれ、恐れられてきました。その司令塔であるスモーキーを失うことは、無名街が最大の防御を失うに等しいと、スモーキー自身わかっていたはずです。

 それなのに、なぜ病気を治そうとしなかったのか。



 『THE MOVIE3』で明らかになったのは、親に捨てられたことへのスモーキーの思いでした。
 生まれてすぐ無名街に捨てられたというスモーキーには、一応面倒を見てくれた人がいたと推察します。そうでなければ、幼子が生きていけるわけはありませんから。子捨てが後を絶たない無名街では、拾う人なく亡くなった赤子もいるでしょう。スモーキーは早くから「親は子(自分)が死んでもいいと思って捨てた」とわかっていたと思います。

 「この街に捨てられ、誰からも忘れられた」。生まれ落ちた世界で一番に愛してくれるはずの親に捨てられ、忘れられた自分は、この世にいない存在なのではないか。スモーキーの文字どおりの「無私」は、ここが端緒だったかと得心しました。



 無名街には子どもを売買する輩がいます。病気になっても、薬を買うことも医院に行くこともままなりません。荒んだ大人たちの憂さ晴らしに暴力を振るわれることもあったでしょう。飢えや暑さ、寒さをしのぐ術もありません。そうして何人もの子どもたちが姿を消し、そのなかにはスモーキーと知り合った子もいたかもしれません。

 物心ついたときから生と死の狭間にいて、喪失ばかりを味わう日々。そんなとき、泣いている女の子を見つけて、手を差し伸べた。すると、女の子は手を取ってくれた。「泣かないでほしい」と真心を見せれば、泣きやんでくれて、笑ってくれて、傍に来てくれる。

 家族というものを知らないスモーキーに誰が「家族」という言葉や概念を教えたのかわかりませんが、彼にとって、それが“家族”の始まりでした。



 ララという“妹”ができたことは、スモーキーを大きく変えたと思います。彼女を守るために格闘に強くなったでしょうし、敵を追い払うためのトリッキーな作戦などもどんどん編み出していったのではないでしょうか。

 また、彼女を“家族”にできた成功体験から、人たらしにも磨きがかかったんじゃないか、と……。



 無名街に捨てられた子どもは、親から「死ね」と言われたも同じ。その絶望を知るからこそ、スモーキーは子どもたちを“家族”と呼んで迎えました。それは家族に見放された子どもたちにとって、どれだけ大きな救いとなったことでしょう。スモーキーもまた、ララをはじめルードのメンバーに“家族(家長)”と慕われることで、自分の存在意義をつなぎ留めていたのだと思います。

 彼らに身を守る術を教え、無名街を守る方法を共に考え、彼らと無名街が一日平穏であればいい。誰も悲しむことなく一日を終えられたらいい。

 スモーキーが唱える「俺たちは家族のため、生きることを決してあきらめない。だから誰よりも高く飛ぶ」は、過酷な環境を生き抜きながら、さらに敵を警戒し、戦うルードのメンバーが、どんなに傷ついても、心折られても、死に捕らわれないよう鼓舞する「破魔の呪文」だったのかもしれません。

 では、スモーキーは生きることをあきらめていたのか。「あきらめ」とは、なにかしら望みがあって、それがかなわないときに生まれる感情です。先に「無私」と書きましたが、彼はこと自身に関して「〜したい」という欲求が、そもそもないように感じるのです。
 “家族”といないときの彼は、見張りがてら、無名街の一番高いところにひとり佇んでいるだけ。コブラがプロレス雑誌を読みふけったり、ROCKYが独特の女性の趣味を披露したり、村山がカラオケやバッティングセンターに行ったり、日向が酒を飲んでゴロゴロ寝ていたり、G-SWORDの頭たちは自身を楽しませる術を持っています。しかし、スモーキーにはそういう描写は一切ありませんでした。つまり、彼には人間なら誰もが持っている、自己を楽しませたい、満足させたいという欲求……我欲が欠如している。彼は、ルードのリーダー、「無名街の守護神」となった今も、自分が大切にされるべき人間だとは考えていないのです。

 “家族”が生きるに必要なお金を使ってまで、そのうえ“家族”を危険にさらしてまで、病気を治そうとは思わない。無名街の他の住人たちのように、病気にかかれば自然に任せて、死ぬときには死ぬ。彼はそんな気持ちでいたように思うのです。



 九龍グループが無名街を爆破するまでは、それでよかった。G-SWORD内での小競り合い程度なら、無名街の守護者としてルードは十分に機能しました。けれども、無名街再建の足がかりだった地下鉱山が爆破され、多くの住人が殺傷され、劉龍人率いるDOUBTの罠にハマったとき、スモーキーは自分自身とルードと無名街の限界を悟ったのではないかと思います。

 無名街は戸籍も居住権も持たない人々の集まりに過ぎません。殺されても加害者が特定されて罪になることはまれでしょうし、住処を破壊されても立ち去るほかありません。自分たちが守ってきたものが、元より不法であり、公権力を前にしては消え失せるしかない「幻の地」と思い知ったとき、スモーキーの容姿もまた儚く変わったのでした。



 同時に、彼はルードのメンバーに「家族」という“呪い”をかけてしまったことにも気づいたでしょう。

 ルードのリーダーとしての彼は、ワイドレンジフォーメーションの司令塔として沈着に戦況を見極め、戦闘においては血が騒ぐと言わんばかりに敵を蹴倒し蹴散らし、エクストリームなアクションを披露するメンバーの中でもひときわ印象的です。また、劉の罠にハマったときは、傷ついたルードのメンバーに散開を命じ、自分は殿(しんがり)を務めて全員を逃がすという、惚れ込まずにはいられない男気を発揮します。

 さらに、皆を“家族”にしてくれた家長でもあり、いつもは空近くにいるスモーキーが地上に降りてくると、どこからともなくルードのメンバーが姿を現し、親鳥を追う雛のごとくその後ろに付き従います。

 ルードの面々にとってスモーキーは絶対的なリーダーであると同時に敬慕する家長であり、その傍を離れるなど考えられないことでした。



 刻一刻と家村会による掃討が迫るなか、生きるために築き上げた“家族”の絆が、逃げるべきときに誰も逃げず、危機に陥るだけの「枷(かせ)」になってしまっている。

 この局面における、スモーキーの判断はおそらく3つ。

 まず、家村会の掃討のターゲットは間違いなくルード。そのリーダーである自分を狙わせ、引きつけておけば、その間にメンバーは残った“家族”を連れて逃げられるだろう。

 次に、すでに歩くこともままならない自分を連れていては、いくら俊敏なルードのメンバーとはいえ逃げおおせない。自分は皆と一緒に行くべきではない。

 そして、無名街における“家族”は無名街あってこそ。外の世界で“家族”の絆を守り続ければ、それは軋轢を生んだり、孤立を招いたりする。皆を“家族”から巣立たせなければいけない。

 この3つめの決断が、九龍グループとは決定的に違う、G-SWORDのテーマでもあるのですが、今はさておき。



 「俺たちはずっと誰かのために夢を見てきた。そうすることでしか生きられなかった。でも、これからは自分のために夢を見ろ」「絶対にあきらめるな。お前たちはいつだって、誰よりも高く飛ぶんだ」。

 これ、『THE RED RAIN』の雨宮尊龍の「誰になんと言われようが、俺たち3人は本物の兄弟だ。最強で、最高の……」に並ぶ、“兄”から“弟妹”たちへの思いやりに満ちた言葉だと思います。

 「誰かのため」、それは無名街の住人たちのために戦い続けてきたことだったり、無名街の再建のために地下鉱山で働いていたことだったり、いつも“家族”への気遣いを忘れないことだったり、スモーキーの身体の心配だったり……。“弟妹”たちのこれまでの思いや努力、献身を受けとめ、認めてやり、未来への指針と信頼を託す。

 “弟妹”たちにこの言葉を残したことこそ、スモーキーのルードのメンバーへの深い愛情と、彼らと“家族”の絆を結べたことへの喜びと満足を物語っているように感じます。



 もちろん、ルードのメンバーはスモーキーの傍を離れたくはなかったでしょう。しかし、劉&DOUBTと戦ったときのように、スモーキー(家長)の命令は絶対なのですね。

 それにもうひとつ、彼らにはスモーキーを止められない理由がありました。自分が盾となって“家族”を守りたい。それは、スモーキーがおそらく初めて口にした「自分がしたいこと」だったのではないか。

 このとき、スモーキーの望みを無視して背負ってでも共に逃げていたら、彼の命はまだしばらくは永らえたかもしれません。でも、心はどうだったでしょう。

 “家族”のために生きてきた彼が、自分の望みとしてその命の使いどころを決めてしまった。敬愛するリーダーであり、“兄”である彼の決意だったからこそ、特に彼と戦ってきた“弟”たちは無下にはできなかったのだと思います。

 それでもタケシだけはスモーキーの元に残ろうとします。しかし、スモーキーにとってタケシこそルードに残す“自分の意思”でした。

 スモーキーの言葉に今生の別れを予感してタケシが流した涙があまりにも自然で、窪田正孝佐野玲於ではなく、スモーキーとタケシという人物たちの語らいを観ているようでした。



 だからこその「最高の人生だった」。お互いにお互いを失えないのに、スモーキーの望みを呑んで、折れてくれた。自分の人生を、心を、望みをすべてまるごと受け留めてくれる、そんな“家族”と出会い、生きてこられた。最後まで守りたいものを守ることが許された。

 このときのスモーキーの思いは、たぶん"Break into the dark"の歌詞のままです。



 I'll break into the dark

 I'll give everything I have and everything I had

 I'm one step closer to the light

 「闇を遮ろう。

  かつて持っていたもの、今持っているもの、すべてをかけて。

  私は光へと向かう一歩になる」





 二階堂は、スモーキーのような「無名街のカリスマ」になりたかったのかもしれませんね。最初は暴力や威圧やあの手この手を使って部下を集めたのかも。でも、支配欲とは無縁のスモーキーのもとに人が集まるのを見て、勝手に負けた気になって無名街を出奔。家村会の幹部として頭角を現し、惨めに殺される(と二階堂は思っている)スモーキーを嘲笑いに来たつもりが、「お前にはわからないだろう」と言われて、本当にわからないから、死ぬまでこの言葉を思い出して悶々とする、という展開だったら、私がわりと根暗く喜びます。





 コブラが無名街に到着したとき、すべては終わっていました。

 おそらく最初にスモーキーの元に駆けつけたのはルードのメンバー。“家族”を安全な場所に逃したあと、すぐさま戻ってきたでしょう。ちょうど劉&DOUBT戦でスモーキーを助けに舞い戻ったように。雨宮兄弟は、たぶんスモーキーがキリンジたちの攻撃を受けてからそんなに経たずに到着したと思われます。バイクを手足のように扱う運び屋ですから、緊急の場合、それこそぶっ放して来るでしょう。

 コブラはもちろん俊敏俊足を誇るルードも迅速確実な運び屋である雨宮兄弟も間に合わなかった。この「間に合わなかった」が『THE MOVIE 3』の、そして『HiGH&LOW』シリーズの大きな転換点だったと考えます。



 (後編に続く



Break into the Dark

Break into the Dark



TVドラマ『HiGH&LOW』Season1 スモーキーという現象



 以下はTVシリーズ放送後、劇場版シリーズ公開前あたりに書いた感想文の改稿です。TVシリーズSeason1のスモーキーについてしか語っていません。

 TVシリーズのネタばれありです。未見の方はご注意ください。





 午前1時過ぎというと、原稿書いたり、ネットしたりしている時間帯。テレビをつけて、BGM代わりに音声だけ背中で聞いていることが多く、『HiGH&LOW THE STORY OF S.W.O.R.D.』もたまたまその時間に流れていた“音”に過ぎませんでした、最初は。



 忘れもしない、第6話。ワチャワチャ聞こえていた音が急に静かになって、ホラーめいた曲が流れ出して……「あれ? 番組、変わった?」と振り向いたら、ダンジョンみたいな廃工場っぽいところを若い女性が歩いているところでした。立ち止まった彼女が眼差しを向けた先に、現われたのは炎に照らされたモッズコートの集団。

 オープニングで窪田正孝が出演することはわかっていましたから、「ああ、やっと出てきたのか」と思いました。



 エピソード・タイトルを挟んで、Aパート。映し出されたのは、スモーキー・マウンテンとまでは言わないけど、「どこの国?」みたいなスラム街と汚泥に塗れ、貧困に囚われた人々。“蠢(うごめ)く”という言葉どおりにうごうごしている彼らから、切り替わったカメラにインしたのは、目を閉じた青年の横顔。その切り替えの間(ま)の短さと目を閉じて何かを聞き、感じ取っているような青年の表情の静けさに、彼は住人たちすべてを脳内に掌握しており、常に彼らの音を聞いているのだと感じられて、なんて雄弁なカメラワークと佇まいの演技なんだろうと思いました。スモーキーという人物の有り様が、この切り替えのシークエンスだけで語られてしまっていたのです。



 さらに、彼が徐々に目を開いていくところでは、『ネバーエンディング・ストーリー』の「第一の門」を思い出しました。門の左右に立つスフィンクス像の目はいつもは閉じていますが、自分に自信のない者が通過しようとすると、目が開き、光線を放ってその者を殺します。開いていく目に、そんな危険を感じました。

 この印象は当たらずとも遠からずだったようで、スモーキーは好戦的になると、目の開きが大きくなって、黒目が目立って見えるんですよね(瞳孔が開く感じ)。



 子どもたちを売買する取引現場に音もなく集まり、見下ろすRUDE BOYS(以下、ルード)のメンバーたち。リーダーに何も言われなくても適切なタイミングで動き、彼の視線ひとつで了解するチームのさまに、今までのチームにない緊張感を覚えました。



 ほとんど口は開いていないのに、低く響く声。静かに、いっそ穏やかに「勝利者も敗残者も、夢をもって産まれ、生きている、同じ人間だ」と語り、それが否定されたとたん、裁きを下す重い口調でひと言、「だったら、お前は助からない」。「ああ、やっぱり、この人は(人品を計る)スフィンクスの門だー!」と思いましたよね。

 襲いくる敵に瞬時に反応するスモーキーとタケシ。その静から動への展開の鮮やかさ。そして、スモーキーはじめルードメンバーのアクロバティックな戦闘の連続には、ただただ見入るばかりでした。

 パルクールブレイクダンスといったエクストリームなアクションが次々披露されるなか、タケシやピーほかルードメンバーひとりひとりの動きの個性が際立っていて、性格までわかる気がしました。

 なかでも、妖艶にさえ思える魔的な笑みを浮かべながら余裕で敵を蹴倒し、一瞥で仲間たちの戦況を把握するスモーキーのリーダーぶりときたら! 特に視線の動かし方が速くもなく遅くもなく、戦い慣れていて何事にも動じない、敵には容赦しないが、味方のことは常に気にして見守っている、そんな人物像を物語っていて、ずっと彼の目元を追っていた気がします。





 第7話では、チハルを捜して無名街に侵入したヤマトをルードのメンバーが広場に追い込むさまに、ワイドレンジフォーメーションが可能な統制の取れたチームという印象を強めました。

 山王連合会が守ろうとしている商店街は、店舗や土地を所有、あるいは賃貸して住んでいる人ばかりなので、潰すには潰す側が土地を買い上げるか、犯罪行為を行う以外にありません。White Rascalsは、敵の襲撃はクラブ「HEAVEN」に集中するため、本拠地を守りさえすればいい。それは鬼邪高校、達磨一家も同様です。

 ところが、ルードの守備範囲は、戸籍の有無さえあやふやな身元不明の住人たちと誰も住む権利を持っていない土地。殺されても、警察が捜査しないなら犯罪にならず、重機で住処を壊され、追い出されても、文句さえ言えない。守れるか守れないかが生死に直結するだけに、ルードはG-SWORDの中でも随一の軍隊並みの指揮系統と結束力を持たざるを得なかったんですね。

 そうして彼らが守っているものは、たとえば官憲力が押し寄せれば、明日にでも無名街が無人街になってしまうほど、儚い。実のところ、人々の生死を担う必然的存在であるが故に、G-SWORDで最強であるはずのチームが守るもの(無名街)は、明日をも知れぬ、G-SWORD最大の弱点でもあるのです。

 スモーキーの病気は、最強なのに最弱という、ルードと無名街の関係を体現しているように思えてなりません。



 それにしても、「よう、ヤマト」と親しく声をかけながら、ヤマトが「てめえの妹、連れてこい」と言ったとたん、敵認定して華麗なるとび蹴りを食らわすとは。その後のヤマトとの一騎打ちでは、ヤマトの大振りとはいえ力のこもった拳をスピーディーにかわす、その身体のしなりぐあいに「身体、やわらかいなあ」と感心。

 ヤマトと手合わせするスモーキー、ちょっとうれしそうなんですよね。強い相手を見ると勝負したくてうずうずっとなるところ、彼もまぎれもなくSWORDの頭のひとりなんだなあ(笑)。

 ララを守るためとはいえ、スモーキーもルードメンバーも本気でヤマトやダン、テッツに大きな怪我を負わせるつもりはなかったと思います。3人を再起不能にしたら、山王連合会と本気で事を構えることになりますから。ただ、スモーキーの吐血に動揺したとはいえ、ヤマトたちを追いきれなかったのはルードメンバーの失態ですね。3人のなかに頭脳派ひとりもいないのに……。





 第8話では、そこそこ規模があるレッドラムの工場の存在を、スモーキーがまったく察知していなかったことに驚きました。どうやら、ルードは無名街をいくつかのエリアに区切って幹部たちに振り分け、監視や管理を一任しているようですね。実際、無名街は広いうえに入り組んでいるので、スモーキーがすべてを把握するのは無理でしょう。だから、むしろスモーキーが工場の存在に気づいてなかったことが、彼のシオンやルードメンバーへの信頼の深さを物語っているのだと解釈しました。

 あと、シオンがレッドラム製造に手を染めたきっかけが知りたいですね。G-SWORDでは麻薬はご法度。スモーキーの病気の進行を食い止めるため早くまとまった金が必要だったとはいえ、スモーキーが禁じている麻薬に手を出すとは、シオンと家村会の関係を疑っちゃいます。





 第9・10話は、やはり「SWORDの頭たちの揃い踏み」ですね! チームものの醍醐味といいますか。登場の仕方もチーム色が濃厚に出ていてよかったです。

 第9話で、山王連合会はコブラとヤマトを欠くものの、ダンをはじめカニ男やチハルも含めた“仲間たち”がわらわらわらーっと達磨一家に向かっていく。やはり日向を欠く達磨一家は、右京・左京を中心に加藤の太鼓によるフォーメーションでダンたちを翻弄する。個人戦の山王連合会と団体戦の達磨一家の違いもさることながら、スローモーションでの個々人の戦いぶりがマンガみたいにデフォルメってて、ユニーク。ワイドレンジの画角に、映画の画面を観ているような気がしました。

 地面に達磨一家の法被が累々と転がり、山王連合会優勢かと思いきや、日向の声ひとつで彼の歩みの背後でむくむくと起き上がるゾンビのような達磨たち(笑)。艶っぽい流し目をくれながら気怠そうに歩み寄ってくる日向とゾンビ達磨たちに、思わず腰が引ける山王連合会。ヤクザ一家の四男坊・日向のカリスマ性を思い知らされた場面でした。

 そこにハーレーに跨ったコブラとヤマトが登場! エグゾースト音で注目を集めるのが、いかにも元「走り屋」ですね。



 第10話は「戦わない」コブラと「戦いたい」日向のやり取りが見ものですが、それをわざわざ観戦しにくる残り3チームのリーダーと幹部たちも見ものです。

 White RascalsのROCKYはKOOと共にビッグスクーターで登場。意外にせっかちなのか、KOO以外の幹部たちを引き離して到着した模様(笑)。常と変わらぬ余裕たっぷりの態度ですが、達磨一家の襲撃に報復する気満々です。ROCKYが話している間に合流した幹部の皆さんは、まさか走ってきたのでしょうか。お疲れさまです。

 鬼邪高校の村山はゆらゆらペタペタ、歩いているだけなのに存在自体がなんだか騒がしい。背後には高校生に見えない高校生の幹部の面々が横並び。村山が言い放った「達磨への借りはしっかり返させてもらう」というセリフ、「達磨」が微妙に巻き舌で、とても好戦的に聞こえます。

 ガラスを叩く音に見上げれば、いつの間にか物音ひとつ立てずにバルコニーに陣取るルードのメンバー。王城のバルコニーに貴族たちが参集し、王の御出座を待つ風情の彼らは、地上の皆にも「我らがリーダー」のお出ましを知らせたのでした。そこに現われたるは、“王子”、最後に顔色は悪いものの、ゆったりと地上を見下ろす“王”!

 元より他チームに対して警戒心の強いルードが、皆と並んで地上に立つことはないと思っていましたが、なんですか、このケレン味たっぷりのご登場は! メンバーのほとんどがバルコニーから身を出して座っているのは、事あらば、すぐさま飛び出し、飛び降りて、スモーキーを守るため、なんですよね。



 このSWORD5チームの配置を見たとき、やはりルードは他の4チームとは違うんだな、と思いました。他の4チームが地上に根づいているのに対して、ルードだけは地上に実体のない「幻の地」を守っているのだ、と。G-SWORDが崩壊するなら、それはたぶん無名街とRUDE BOYSからで、行き場のない者たちが集う避難場所さえ容認できない世知辛い世界の到来を意味するのだ、と、そんなふうに思えました。

 忘れてはいけないのは、この『HiGH&LOW』という作品は「全員主役」を謳っていますが、主役はコブラであり、山王連合会なんですね。White Rascalsも、鬼邪高校も、RUDE BOYSも、達磨一家も、コブラと山王連合会にとっての、立ち向かうべき敵であり、また九龍グループのような巨悪と闘っていく仲間でもあるのだ、ということは常に念頭に置いておかないといけないと思いました。結局、TVシリーズはノボルで始まり、ノボルで終わったのですから。





 窪田正孝出演作品をすべて見てきたわけではありませんが、スモーキーは私がこれまで見たことのない窪田さんでした。

 演じるキャラクターの雰囲気(空気感)まで創り上げてしまう窪田さんですが、スモーキーの、猛々しいところはあるけれども、身内にはやさしい、穏やかな人、なのになぜか近寄りがたく、神々しささえ覚えてしまう、この感覚はなんなのか。

 たとえば、能で神仏が登場したとき、その佇まいや装束などから“感じさせられる”人間とは違うモノのオーラが、スモーキーからごく自然に放たれているように感じるのです。

 このオーラを「スモーキーというキャラクターなら、こういう雰囲気で佇まいだろう」という計算で創り出されたのだとしたら、怖すぎると思いました。たぶん、窪田さんが「スモーキーというキャラクター」に与えた口調、目線、動作やしぐさがすべて相まって、その結果があのオーラだと考えてはいるんですけどね。

 スモーキー役以外では、窪田さんのこのような演技は見られないでしょう。役者さんが演じる役も一期一会だな、としみじみ感じ入るこの頃です。